第26回「平尾山荘跡」(福岡市) 中央区平尾 野村望東尼が夫と隠居生活 潜伏した高杉晋作、起死回生の挙兵決意

一筆啓上

 初めて平尾山荘を訪れたのは、いつ頃だったろうか。

 住宅街のわらぶき屋根。無人。入口に案内チラシがあり、風で飛ばないよう、拳ほどの石が載せてあった。

 ここに高杉晋作が隠れていたのか……。

 炉が切られた座敷は狭く、それこそ、イビキすら隣室に響くのではと余計な心配をした。

 山荘の裏手には小さな泉があり、野村望東尼が知人の陶山一貫に手土産として持参した名水が湧いている。斜面には、小さなほこらがあったが、何が祀られているのかは不明。

 「維新秘話 福岡」の連載にあたり、再び平尾山荘を訪ねてみた。

 相変わらず、人の気配がない。

 しかし、少しずつだが、整備が進み、斜面にあった祠のそばに案内看板が設けられていた。平野國臣、中村恒次郎の両名が詠んだ和歌を刻む石塔が納められているという。

<大君にささげあまりし我いのちいまこそすつる時は来にけり> 平野國臣

<兼てよりつかふる君の命ぞと思いし我身今ぞささぐる> 中村恒次郎

 中村恒次郎は真木和泉が指揮する忠勇隊に所属し、禁門の変で戦死。平野はその禁門の変での騒動の最中、六角獄舎で殺された。中村恒次郎は兄の円太の影響を受けて尊皇運動に身を投じた。円太は高杉の福岡藩亡命を手助けした人。この円太なくして高杉の生命はまもられなかったのだ。

 維新史において、平尾山荘は外せない。

 徐々に史跡として整備が進む平尾山荘だが、近隣の公共交通機関などの案内はさびしいばかり。遠隔地から来福される幕末史ファンのためにも、地図や看板を備えてほしい。

藁ぶき屋根、雑木林、裏手の小さな泉…… 往時を偲ばせる風情 3藩連合構想外れ失意の晋作 息子のように接する望東尼、親身に世話

 高杉晋作は、平尾山荘で何を考え、何を感じたのだろうか。そんな疑問を抱きながら、西鉄平尾駅の改札口を出た。平尾山荘は福岡市中央区平尾にあるが、駅から徒歩15分ほどのところ。住宅街の公園のように整備されていた。

 ここは野村望東尼と夫の貞貫さだつらが隠居生活を送り、筑前福岡に亡命してきた高杉晋作が潜伏した場所として知られる。わらぶき屋根、雑木林、裏手の小さな泉が山荘と呼ぶにふさわしい往時をしのばせる。

 亡命直後の高杉は、佐賀藩、対馬藩、福岡藩との3藩連合を画策していた。福岡市博多区須崎町にあったという石蔵卯平いしくらうへいの邸で、筑前勤皇党と作戦会議を開いた。

 高杉は早速、佐賀県鳥栖市にあったという対馬藩田代代官所を目指した。田代領は、対馬藩3万石弱の約4割の石高を産する有力な領地。軍資金を得るためにも、この田代領の取り込みは必須だった。しかし、この時、対馬藩は藩内の政権抗争中であり、3藩連合の気運すらなかった。

 構想が外れ、失意の高杉を平尾山荘に案内してきたのは月形洗蔵だった。諸説あるが、高杉が平尾山荘に滞在したのは、元治元年(1864年)11月12日から、およそ1週間と伝わる。望東尼は帰郷した息子を迎えるがごとく、親身に高杉の世話をした。高杉も実家でくつろぐ風に縁側に寝そべり、その側で望東尼は縫い物をしていたという。手先の器用なことで知られた望東尼だったが、印半纏しるしばんてんのようなものを縫っていた。野村家の使用人である須田夘吉うきちの目撃証言である。

 ちなみに、時期不明ながら、夘吉は西郷隆盛らしき薩摩の大男が山荘を訪ねてきたとも証言している。

 高杉に長州藩の差し迫った状況をしらせてきたのは早川いさむだった。早川は月形洗蔵とは盟友。高杉の福岡亡命と入れ違いに、長州へと出張し、その実情を知らせにきたのだった。

 長州藩は幕府に対する謝罪恭順として家老の益田右衛門介うえもんのすけ、福原越後、国司信濃くにししなのの三家老を切腹、宍戸左馬之介ししどさまのすけら四参謀を斬首とし、「禁門の変」での指揮を執った責任を負わせた。その長州藩俗論党の態度に、高杉は声を殺して雄叫おたけびをあげた。自らの力で起死回生の挙兵を決意した瞬間でもあった。

 高杉は、平尾山荘滞在中、望東尼を通じて自身の天命、使命を悟ったのではないだろうか。

 訪ねた折、平尾山荘では、静かに小雪が舞っていた。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から2018年12月まで読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(2017年6月~2018年12月)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。
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[やってみた]博多の高級「癒やし」ホテルに宿泊 エアコンなし、冬の乾燥&夏の冷え&ほこりから解放! シルキーな静寂&接客でリラックス すべては朝の目覚めのために! その名も『ホテル グレートモーニング』 冷泉公園そばに開業

 んもう、ステキなホテルでした♡

 五感に心地よい高級感。心身を癒やす空気と静寂。洗練されたソフトな接客。厳選された食事やアメニティー。一言でいえば、「シルキー」。一泊したわたくし、滞在中は上質な絹に包まれているような感覚でした。

 その名は『ホテル グレートモーニング』。福岡の、博多の、店屋町に11月23日、開業しました。

 さきほどわたくし、「空気」と書きました。サラリと。でも、特別な意味があります。

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第20回「水田天満宮 山梔窩」(筑後市) 久留米藩「嘉永大獄」で蟄居の真木和泉、10年滞在 多くの門弟育て、勤皇の志士輩出 

一筆啓上

 維新に関する史跡を歩いていて、天満宮を介しての情報ネットワークが構築されていることに気づく。

 太宰府天満宮の延寿王院は「維新の策源地」と言われる。ここを基点に情報網が伸びている。それは、現代も、久留米・水天宮境内の真木神社脇に太宰府天満宮の名を刻む銅板があることから、水天宮と太宰府天満宮との関係性が見えてくる。

 この情報網は真木和泉が意図的に仕掛けたのか、偶然なのかはわからない。真木家は貧しく、口減らしとして水田天満宮、太宰府天満宮社家の小野加賀家にと弟たちを養子に送り出した。

 久留米藩の内訌(内紛)に関係したことから、真木和泉は謹慎処分を言い渡された。江戸時代、謹慎処分では親族が監視役を務める。そこで、弟の大鳥居理兵衛が宮司を務める水田天満宮で真木和泉は謹慎生活を送る。

 謹慎処分と言いながら、真木和泉の才能を求めて訪ねてくる志士たちは多かった。水田天満宮参拝という口実で志士たちは訪れ、祈願の札に密書を忍ばせ、真木和泉に届けていたのではないだろうか。

 その水田天満宮を訪ねた時、「良縁祈願」の女性たちを多く目にした。末社の「恋木神社」のネーミングから良縁祈願の聖地となったようだ。天満宮は情報ネットワークの基点。この地から、太宰府に久留米にと「良縁」が広がる様を想像したのだった。

 ちなみに、水田天満宮ではピンクのハート型の餅が売られている。どこか、買い求めるのが気恥ずかしく、口にできなかったのは残念。

 なお、恋木神社については、新刊『奉納百景』(小嶋独観著、駒草出版)の26~28ページに写真つきで紹介されている。

当時の宮司は実弟・大鳥居理兵衛 倒幕計画頓挫の真木和泉らに続き捕縛され、送還途中に自決 実兄やその門弟に累が及ばないよう配慮か

 一瞬、場違いなところに来たのでは……と思った。筑後市の水田天満宮を訪ねると、若い女性が目立つ。ここは全国でも珍しい恋愛成就の神様「恋木神社」があるからだが。拝殿前の「水田天満宮・ようこそ勤王の志士 明治維新発祥の里へ」と記された標柱があることで、やはり、維新関連の史跡なのだと安堵あんどする。

 この天満宮は、久留米藩の「嘉永大獄」に連座し、蟄居ちっきょを命じられた真木和泉まきいずみがいたところ。実弟の大鳥居理兵衛が宮司を務めていたが、いわば、理兵衛が実兄の真木を監視する役目を負わされていた。

 その真木の滞在は、およそ10年の長期にわたった。天満宮そばに平屋の藁葺わらぶき住居「山梔窩さんしか」を構えた。別名「くちなしのや」と呼ばれ、口を慎むという真木の意思が込められている。四畳半と三畳ほどの2室きりだが、ここで、真木は多くの門弟を育てた。

 近在の青少年に対し、学問を授け、撃剣、相撲という身体の鍛錬も義務付けた。「山梔窩塾規」を定め、塾生の生活態度、塾内の立ち居振る舞いにまで注意を払った。塾生は、庄屋、村役人、神職の子弟であり、武士階級ではない。しかし、武士同様の教育を受けた彼らは、のちに維新運動に身を投じる。

 山梔窩に集まったのは、青少年だけではない。福岡藩の平野國臣、出羽(現在の山形県)の清川八郎、熊本藩の宮部鼎蔵みやべていぞうら勤皇の志士たちもいた。真木の広い学識と思想にかれたからだが、とりわけ、平野國臣は蟄居中の真木の手足となり、国内外の情勢を伝える役目を果たした。

 嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航。安政5年(1858年)、幕府は日米修好通商条約を締結。無為無策の幕府の対応に憤り、真木は失政をただすとして行動に移った。

 文久2年(1862年)2月、真木は久留米藩を脱藩。塾生たちを従え薩摩へと向かう。薩摩藩との共闘を考えたが、島津斉彬なりあきら亡き後の薩摩藩は混乱していた。京都では、薩摩藩の内紛である「伏見寺田屋騒動」に遭遇。計画は頓挫し、真木たちは久留米に送還された。

 真木に先行して上京した大鳥居理兵衛も捕まり、送還途中に自決した。実兄や塾生に累が及ばないようにとの配慮と思える。水田天満宮は真木の蟄居先として注目が集まる。しかし、真木を支え犠牲となった理兵衛にも思いを寄せてほしい。境内の華やかな雰囲気を見ながら思うのだった。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から2018年12月まで読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(2017年6月~2018年12月)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。

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 読売新聞福岡版の地域生活欄「まち風 くらし色」では11月18日、伝統食材の葛を使った「プチ断食」の体験イベントを紹介しました。最近、食べ過ぎとお酒の飲み過ぎ傾向が止まらない記者(女性)も参加。甘酒に葛でとろみをつけた「甘酒葛湯」などを少しずついただき、一日を過ごしました。 “第6回「葛」 守りたい💝健康&手にしたい👐美しさ✨ 伝統食材の効用に注目👀 葛養生レシピ、コスメ活用―― 女性記者が“達人”に教わってきました!! おすすめの本葛粉もご紹介” の続きを読む

第19回「久留米城跡 篠山神社」(久留米市) 祭神は歴代久留米藩主 第10代頼永、尊皇の志篤く日本見据える 無念の早世、長命なら幕末維新史で久留米藩は……

一筆啓上

 久留米城跡には歴代藩主有馬家を顕彰する「有馬記念館」がある。

 訪ねた折、「姫様のひなまつり」展として、お姫様のためにあつらえた絢爛けんらん豪華な品々が展示されていた。それらを眺めながら、維新時の藩主である有馬頼咸ありまよりしげの解説に目が留まった。

 有馬頼咸は第12代将軍徳川家慶とくがわいえよしの養女精姫を正室に迎えるため、久留米藩の江戸藩邸を新築することに。それも、藩財政を揺るがす巨額の資金投入をした。殿様は徳川家に対しメンツを保つためだろうが、これでは領民はたまったものではない。時代は、オランダ国王が日本に開国を勧めてきた時期と重なる。

 本来、西洋列強の脅威に備えなければならないときに、江戸藩邸の新築とは、なんと悠長な事と思った。幕府も藩も、緊張感に欠けている。これでは、倒幕論が盛んになるのも仕方ない。

 そんな感想を抱いて有馬記念館を後にした。
 
 ちなみに、久留米城跡には「東郷記念館」もある。ブリヂストン創業者・石橋正二郎が尊敬する東郷平八郎の書斎を移築したもの。石橋正二郎の業績について知るには、小島直記氏の『創業者・石橋正二郎 ブリヂストン経営の原点』(新潮文庫)がオススメです。

 この人が為政者であれば、どんな統治をしただろうかと、興味が湧いたのでした。

薩摩・島津斉彬、土佐・山内豊信(容堂)らと交遊 海外情報収集の「長崎聞役」設置、西洋の大砲鋳造に着手 真木和泉見いだし、財政危機では自ら倹約

 久留米城跡(久留米市篠山ささやま町)に足を踏み入れたとき、世が世であれば殿様になるべき人の名前を思い出した。

 日本中央競馬会理事長を務め、重賞レース「有馬記念」の由来ともなった有馬頼寧ありまよりやす、映画「兵隊やくざ」の原作である『貴三郎きさぶろう一代』の著者有馬頼義よりちかの二人。「有馬記念」は今に至るも人気のレースであり、「兵隊やくざ」は勝新太郎、田村高広の名演技によってシリーズ化された。明治維新という時代の変革が無ければ、有馬頼寧は14代、有馬頼義は15代の久留米藩主を継承していたはず。

 この久留米城跡には、篠山神社がある。祭神は歴代の久留米藩主だが、頼寧もまつられている。これら祭神のなかでも、第10代の有馬頼永よりとお(1822~1846年)は名君の誉れ高い藩主として知られる。尊皇の志が篤く、筑後川に船を浮かべ南朝の忠臣菊池武光をしのぶほどだった。薩摩の島津斉彬なりあきら、土佐の山内豊信とよしげ(容堂)ら、雄藩名士との交遊もあった。

 弘化元年(1844年)、オランダ国王の開国勧告において、頼永は海外の情報収集のための「長崎聞役ききやく」を設け、藩士に西洋砲術の習得、西洋の大砲鋳造に着手させた。

 さらに、頼永は藩の財政危機においては倹約を実行し、領民への負担を求めず、自ら率先して藩全体での節約に心がけた。

 その藩政改革において頼永の目に留まったのが、真木和泉まきいずみだった。真木は頼永に4部56ヶ条からなる意見書を提出した。頼永は真木の意欲を頼もしく思ったことだろう。

 しかし、残念なことに、この頼永は数え25歳という若さで亡くなる。薩摩島津家から迎えた夫人との間に子供がなく、頼永の弟頼咸よりしげへと藩政は引き継がれた。

 この藩主の急逝は、改革派内の分裂を生じさせ、藩政を批判したとして改革派は弾圧された。これが嘉永5年(1852年)5月に起きた久留米藩の「嘉永大獄」である。

 この「嘉永大獄」に連座し、真木和泉も処罰の対象となった。水天宮宮司の職を解かれ、実弟大鳥居理兵衛の養子先である水田天満宮(筑後市水田)に蟄居ちっきょを命じられた。

 城跡から悠々と流れる筑後川を望み、ブリヂストンの企業城下町と称される市街地を見下ろし考えた。日本を見据えた有馬頼永という藩主が長命であったならば、久留米藩は維新においてどれほどの人材を送り出しただろうか。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から2018年12月まで読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(2017年6月~2018年12月)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。