第11回「筑前茜染之碑」(飯塚市) 日本初の国旗、旧筑穂町原産の筑前茜で染め抜く 筑前福岡藩と日の丸初掲揚の薩摩藩、血脈コラボ

一筆啓上

 鹿児島市の中心部に照国神社がある。祭神は日の丸を考案した島津斉彬。その照国神社を訪れたが、照国記念館には筑前茜ちくぜんあかねで染められた日の丸が展示されていた。

 この日の丸誕生の背景には島津家の血脈が関係する。第11代筑前福岡藩主は黒田長溥だが、島津家からの養嗣子。斉彬よりも年齢は下だが、大叔父にあたる。両者、江戸の薩摩藩邸では実の兄弟のようにして育ったという。日の丸の朱色を筑前茜で染めるなど、長溥と斉彬の意思が円滑でなければ進まない。ある意味、日の丸は筑前(福岡県)と薩摩(鹿児島県)とのコラボレーション作品。

 染料となった筑前茜だが、根が赤いことから「赤い根」「赤根」「茜」と転じたといわれる。土中の根が染料になるなど、先人の知恵と経験の積み重ねに感嘆する。

 さらに、蘭癖大名と呼ばれた黒田長溥の博学にも驚く。藩主として、領内にどのような特産品があるのかを把握していたことになる。このことは、旧長崎街道山家宿に近い旧庄屋の山田家に遺る文書から知ることができた。『徳翁山田芳策伝』としてまとめられた1冊には、管理する田の石高から資産、特産品まで、一覧を作成して藩主に提出したと出ていた。

「なるほど、こうやって藩主は領内の詳細を知ることができたのか……」。感心しながら山田家の文書を読み進んだ。

 照国神社を参拝した後、城山に登った。桜島を背景に「昇平丸」艦尾に日の丸が翻る場面を想像した。もちろん、筑前茜で染めた逸品の日の丸を。

島津家からの養嗣子・黒田長溥、筑前福岡藩の特産品生かす 兄弟のように育った島津斉彬とのきずな背景 蘭学好きの共通点も

 国旗日の丸のふるさとが飯塚市山口(旧筑穂町)にある。唱歌「日の丸の旗」の歌詞は「白地に赤く日の丸染めて…」で始まる。白地の中心を赤く染めてこその日本国旗。その日本初の国旗を染めたのが、旧筑穂町原産の筑前あかね(染料)だった。

 平成3年(1991年)8月、初の国旗を染色した記念として「筑前茜染之碑」が建てられた。「茜屋」第17代松尾正九郎が染めたという。この碑は旧長崎街道・内野宿に近い。しかし、今では筑紫野市から飯塚市に向かう米ノ山峠を越えるルートが便利だ。とはいえ、いずれにしても山間部を抜ける山道であることに変わりはない。

 一般に、国旗日の丸のふるさとは鹿児島県といわれる。安政元年(1854年)、薩摩藩(鹿児島県)が日本初の洋式軍艦「昇平丸」を建造し、その艦尾に日の丸を掲揚したからだ。その日の丸を日本国の総船印として提案したのは、島津斉彬(第8代薩摩藩主)だった。外国船との識別だけでなく、日いずる国「日本」の心意気を表象してのことだろう。

 薩摩藩の軍艦と、筑前福岡藩の染料との関係は何なのか。これには島津家の血脈が関係している。島津斉彬の曽祖父は蘭学らんがく好き(蘭癖らんぺき)大名の島津重豪しげひで。その重豪の息子が福岡藩第11代藩主の黒田長溥ながひろだった。ただし、斉彬は長溥よりも年長である。

 福岡藩主は恒例で領内巡視を行う。米の石高、特産品の一覧を作成して殿様に見てもらい、珍しい果樹、植物、初物などがあれば献上するのが習わしだった。なかでも、黒田斉清(第10代藩主)の動植物への関心は高く、領民も抜かりなく準備したことだろう。長崎オランダ商館医のシーボルト(1796~1866年)と親交があり、鳥類においてはシーボルトが絶賛する蘭癖大名だった。その斉清に指導を受けた長溥も蘭癖大名として知られる。

 島津斉彬は西洋技術の導入に熱心だった。「昇平丸」の次には日本初の蒸気船「雲行丸」(薩摩公の蒸気船と呼ばれる)を完成させた。オランダ語の翻訳書を頼りに建造したというから、長溥と同じく蘭癖の部類に入る。そう考えると、筑前茜で染めた日の丸は、薩摩の斉彬、筑前の長溥との緊密なきずなといえる。

 ちなみに、「筑前茜染之碑」の手跡は、麻生太郎氏(副総理兼財務相)である。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。61歳。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載中。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(連載中)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。
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第9回「尊王烈士碑」(筑紫野市) 旧長崎街道・原田宿の筑紫神社 地元出身の吉田重蔵と岡部諶を顕彰 大和挙兵天誅組の変に参戦の吉田、病身の岡部は伝家の宝刀与えて激励

一筆啓上

 「史跡を巡るとき、クルマでの移動ですか?」
 多くの方から尋ねられる。

 「いえ、歩きです」
 そう答えると、驚かれる。

 なんでもかんでも合理的に、早く、というのが現代。そんな中、テクテク歩いて史跡を巡るからだ。

 しかし、幕末期の人々は、特別のことがない限り、歩いて移動した。ゆえに、当時の人々と同じ速度、同じ目線で、感覚で物事を見てみたい。どのように風景を見ていたのかを知りたいと思い、なるだけ歩く。

 真夏の直射日光にさらされようが、雪が降ろうが、ただ歩く。

 筑紫神社を訪ねた時も西鉄・筑紫駅からの歩き。駅前は新興住宅街に変貌し、旧知の場所でありながら、方角がわからなくなった。郵便局で道を尋ねる始末。

 迷いながら辿たどり着いた筑紫神社で「尊王烈士碑」を見つけるのは簡単だった。しかし、経年劣化で碑裏面の彫り込んである文字が読めない。仕方なく、カメラの望遠レンズで、一文字一文字、確認しながら読み進む。

 平野國臣や月形洗蔵の名前を確認するが、記録文書では月形洗蔵の「蔵」は「造」となっている。名前の字や読みは難しい。耳で聞いた音を文字にするので、「蔵」であったり「造」であったりする。いずれが正しいのか、正解は得られないにもかかわらず、考えてしまう。

 筑紫神社からは旧長崎街道・原田はるだ宿じゅくを経て、JR原田駅から電車に乗る。ぼんやり、車窓から景色を眺めながら考える。「月形洗蔵なのか、月形洗造なのか……」

 これが、クルマでの移動であれば注意散漫で事故を起こしかねない。やはり、史跡を確認する際は、よほどのことがない限り、歩きが良い。夏は冷たいビール、冬はかん酒を楽しむこともできるし。

武力による倒幕運動のはしり 妻子を残し、大和(奈良)まで出向くも捕縛、京都・六角獄舎で斬殺される <いよいよ恋しきふる里の空> 辞世の句に故郷思う心情

 長崎と小倉を結んだ旧長崎街道は、現代、シュガー・ロードと呼ばれる。江戸時代、長崎出島に陸揚げされた砂糖が北上し、街道沿いに南蛮菓子、羊羹ようかん饅頭まんじゅうなどを誕生させたからだ。

 その旧長崎街道・原田はるだ宿じゅく筑紫つくし神社(筑紫野市)を訪ねた。ここには、吉田重蔵、岡部まことを顕彰する「尊王烈士碑」がのこされているという。

 吉田は筑紫神社に近いくまの生まれ。もとは田中重次郎と名乗ったが、変名の吉田重蔵で知られる。

 文久3年(1863年)8月、中山忠光卿(明治天皇の叔父)を首領とする「大和挙兵天誅組の変」に参戦し捕縛、京都・六角獄舎に送られた。この挙兵は武力による倒幕運動の最初といわれる。吉村寅太郎、池内蔵太、那須信吾という土佐勤皇党が挙兵に加わったことで有名だが、吉田重蔵も参戦した。福岡から大和(奈良)にまで出向いた吉田の熱意に言葉を失う。それも、妻子を故郷に残してである。

 碑は神社東側参道の右手にあったが、経年劣化に加えて、背後の樹木の陰になり、彫りこまれた文字が判読しづらい。望遠レンズで数文字ずつを読み進んだ。平野國臣、月形洗蔵などと尊王攘夷の大義を唱えると確認できた。しかし、変色し、こけがこびりつき、この確認作業は容易でない。拓本が神社にあれば幸いと社務所を訪ねた。

 突然の訪問にも関わらず、味酒安志みさけやすゆき宮司は資料をコピーし、碑まで案内してくださった。碑文が確認でき、由来も分かった。

 吉田重蔵とともに碑に刻まれている岡部諶は、吉田の師ともいうべき人物。先述の平野國臣、月形洗蔵とも志をともにする。筑紫神社の近く、西小田の庄屋平山茂次郎の息子だったが、幼い頃から学問好き。「読書中不言」の札を下げるので近隣では狂人扱いされた。病で吉田と行動をともにすることができない。吉田に伝家の宝刀を与えて激励した岡部だった。

 六角獄舎の吉田重蔵は、元治元年(1864年)の京都・「禁門の変」で大混雑の最中、斬殺された。やはり、「生野の変」で挙兵し、囚われの身であった平野國臣とともに。

 その吉田の辞世の句が遺されている。

<九重につくす心のまさりてそ いよいよ恋しきふる里の空>

 国事に奔走しながらも、故郷を思う心情は身につまされる。吉田重蔵、34年の生涯だった。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。61歳。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載しており、18年4月からは福岡市のソラリアステージで開講中の「よみうりSPACEラボ」講師を務める。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(連載中)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。

第8回「月形洗蔵幽閉の地碑」(筑紫野市) 福岡藩主黒田長溥に勤皇忠義説き、「藩政妨害」と処断される 桜田門外の変直後、「辛酉の獄」

一筆啓上

 「月形洗蔵幽閉の地碑に行くには、何を目標にしたらいいですか?」

 維新史に関心がある方から、たびたび質問を受ける。グーグルの地図情報には、碑がある場所を示すポイントがある。しかし、現地で碑を見つけだすのは容易でない。目標となるのは九州自動車道だが、周囲は田や畑、小高い丘であり、風景に溶け込んで目に入らない。

 確実なルートは下記の通り。

  • 筑紫野市上古賀の若八幡宮を目指す(グーグル地図に表示があり、県道137号線に面している)。
  • 神社右手、西に直進する道を進む。
  • 鳥栖筑紫野有料道路のガード下を潜るとT字路に行きつく(稲穂の先にぼんやり石碑が目に入る)。
  • T字路を右に道なりに進むと、左手に碑を目にすることができる。

 高速道路の遮音壁のそばに「月形洗蔵幽閉の地碑」はポツンと立っている。

 月形は、こんな淋しい場所で、どんな日々を送っていたのだろうか。無念の思いを反発に変えていたに違いない。そうでなければ、処分が解けた後、再び、倒幕維新の道をひた走ることはしないだろう。どれほどの精神力の持主であったのか。

 2年近くの幽閉期間、山弥光昌が月形を支えていたという。山弥と月形は、槍の同門でもあった。山弥は時に、猪肉や鯉を差し入れ、月形の健康にも気を配っていた。

 この猪肉や鯉について、「西郷(隆盛)と鴻池が一緒なので、持ってきてほしい」との山弥あての月形の手紙が遺っているという。山弥が猪肉や鯉をいつでも用意できることを月形が知っていたからだ。

 月形幽閉の地碑そばの九州自動車道のガードを潜る。坂道を登った先には池があり、昔、そこは養鯉池だった。月形が食した鯉は、その池のものだったのだろう。

 ちなみに、碑に行くポイントである若八幡宮だが、明治10年(1877年)の「福岡の変」で戦死した石部敬吉が倒れた場所に近い。「福岡の変」とは、西南戦争に呼応した旧福岡藩士の義挙。昔、石部の戦死した場を示す小さな石碑があったが、住宅がたて込み見つけ出すことはできなかった。無念。

牢居2年、精神力で耐える 赦免後は薩長和解などにエネルギー 西郷隆盛の評価高く 薩摩島津家からの養嗣子、長溥は藩政上の威厳維持狙いか

 筑紫野市の畑の中にポツンと、「月形洗蔵幽閉の地」碑は立っている。インターネットが普及した現代でも、この場所を特定するのは容易でない。手掛かりは、傍らを通る九州自動車道くらいか。

 月形洗蔵は文政11年(1828年)、早良郡鳥飼村大字谷(現在の福岡市中央区)に生まれた。父・月形深蔵は儒学者(朱子学)、祖父・七助も第10代福岡藩主黒田斉清なりきよの読書相手を務めた儒学者だった。とりわけ、父・深蔵は「王を尊び義をとる」と唱えた朱子勤皇の人だった。

 万延元年(1860年)、月形洗蔵は藩政改革についての建白書を藩庁に提出した。「財政や軍備を整えることが急務であり、(財政負担となる)藩主の江戸参府を見合わせるべき」と主張した。

 天保8年(1837年)、大坂で「大塩平八郎の乱」が起きた。貧民の救済を叫んだ大塩の乱は、福岡藩領にも詳細が伝わっている。安政7年(1860年)3月3日には、幕府の大老・井伊直弼(なおすけ)が水戸浪士らに襲撃された。いわゆる「桜田門外の変」だが、この二つの事件は幕府の屋台骨を揺るがす地殻変動であった。これに触発されたのが洗蔵であり、ついには、藩主に勤皇忠義を説いた。

 しかし、第11代藩主黒田長溥ながひろは「容易ならざる意見を吐き、藩政を妨害した」として、文久元年(1861年)、月形洗蔵、中村円太、藤四郎など30余人を処断。この年が干支えとでいうところの「辛酉しんゆう」にあたることから「辛酉の獄」と呼ばれる。薩摩島津家からの養嗣子である長溥からすれば、藩政での威厳を保ちたかったのかもしれない。

 洗蔵は御笠郡古賀村(現在の筑紫野市古賀)の佐伯五三郎宅に幽閉された。筆、すずりを取り上げられ、終日、六畳ほどの部屋で書を読むしかない。この時代、牢居は緩い刑死といわれる。砲術、剣術の目録(免状)を持つ洗蔵だからこそ、2年の牢生活に耐えることができた。それにしても、その精神力には驚くばかり。

 「月形の志気、筑藩(福岡藩)には無比なる」と西郷隆盛は洗蔵を高く評価した。赦免後の洗蔵は長州征伐軍解兵、五卿の太宰府移転、薩長和解にと水を得た魚のように行動した。まるで、幽閉で抑圧されたエネルギーを一気に爆発させるかのように。

 時代が早かった。月形が幽閉された跡地の碑を見上げながら、惜しい人材を封印したものと、慨嘆した。

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浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。61歳。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載しており、18年4月からは福岡市のソラリアステージで開講中の「よみうりSPACEラボ」講師を務める。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
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第7回「三條西季知歌碑」(筑紫野市) 二日市温泉の丁字路 五卿の一人、官位復活・帰洛の内示に喜び 薩長の協力進展、従者の軍事訓練盛んに

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 夏目漱石といえば、『坊ちゃん』『吾輩は猫である』などの作品を思い出す。その漱石は、俳句も多く詠んだ。いや、むしろ、575の俳句を詠んだからこそ、あの名作が誕生したと言ってよい。

 そして、その漱石の俳句の師匠とでもいうべき存在が正岡子規である。漱石、子規の親密ぶりは、子規の句集の随所にみられる。

 漱石の句碑が二日市温泉(昔は武蔵温泉)の「御前湯」の前庭に佇立している。単なる庭石にしか見えないからか、気づく人はほとんどいない。

 明治29年(1896年)、熊本で新婚生活を送る漱石は、博多公園、筥崎宮、香椎宮、天拝山、太宰府天満宮、観世音寺、都府楼(大宰府政庁)など、福岡市近郊を歩き、俳句を詠んだ。明治27年(1894年)に始まった日清戦争も、前年の明治28年(1895年)には講和条約が結ばれ、世間が落ち着きを取り戻しつつある中での句である。

 漱石の日記、小説、紀行文には、福岡出身者の名前を散見する。杉山茂丸、相生由太郎、そして山座円次郎。いずれもひと癖もふた癖もある御仁たちだが、淡々と漱石は作品や日記に名を記す。もしかしたら、漱石生涯の師・杉浦重剛の影響から、アジア主義者たちの原点を探るための旅だったのかもしれない。

 ちなみに、漱石は日本人初のボディビルダーである。

 温泉、肉体改造と健康に留意する人でありながら、残念なことに大正5年(1916年)に49歳という若さで亡くなる。

 なお、ボディビルダー漱石に関心がある方は、拙著『東京の片隅からみた近代日本』を参考にされたらよい。三島由紀夫にボディビルをレッスンした玉利斎氏へのインタビューとともに記している。

近くに文豪・夏目漱石の句碑 新婚旅行で滞在、三條西と同じく喜び詠む 黒田藩主専用だった「御前湯」前庭

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 二日市温泉(筑紫野市)には、文豪夏目漱石の句碑がある。明治29年(1896年)に新婚旅行で訪れた時のもの。今は公衆の浴場だが、かつては黒田の殿様の専用温泉であった「御前湯」の前庭にある。

温泉のまちや踊ると見えてさんざめく>漱石

 宴会のざわめきをよそに、新妻を前にしての漱石が平静を装う心象がうかがえる。

 その漱石の句碑がある通りを南に進むと、丁字路の角に歌碑がある。大きな岩がそれになるが、誰も存在に気づかない。三條実美さねとみの歌碑にも近いが、これは、五卿の一人、三條西季知すえとも(1811~1880年)のもの。文字の墨が薄れて判読し難いが、解説の銅板を読むと様子が見えてくる。

<けふここに 湯あみをすればむら肝の 心のあかも 残らさりけり>

 太宰府・延寿王院に転座して3年目の慶応3年(1867年)に詠んだもの。この年の初めには、五卿の官位復活、帰洛きらく(帰京)の内示が届いていた。ようやく、身辺の慌ただしさ、無位無官の屈辱から解放される。そんな、深いため息が漏れ聞こえてきそうだ。

 文久3年(1863年)、京の都を追われた五卿だったが、慶応元年(1865年)5月には薩長同盟の前段である薩長和解が進んだ。これを受け、長崎では薩長の協力が進展していた。薩長同盟は慶応2年(1866年)1月のことである。

 慶応3年(1867年)8月から、五卿従者たちの軍事訓練が盛んになる。毎月4日、9日の休日を除き、毎日、銃陣、撃剣訓練、砲術、乗馬があった。五卿従者の谷すすむ(土佐藩)が最新式の装条銃30ちょう、弾丸三千発を長州から持ち帰ってもいた。「英国歩兵練法」を読み、西洋砲術の訓練に熱心であったことが確認できる。

 しかし、二十代、三十代ならいざしらず、三條西はこの頃五十代半ばだった。もともと、三條西家は公家文化である和歌、香道を伝える家柄である。三條西自身、新政府になってからは明治天皇に和歌を指導もした。それだけに、日常の汗くささ、硝煙、モヤモヤした「心のあか」を奇麗さっぱり温泉で洗い流したのだった。

 王政復古に向け悲壮感すら漂う三條実美の歌と比べると、三條西の歌からは爽快感すら迫ってくる。漱石の句碑もそうだが、人は喜びが大きければ大きいほど、よどみのない感情表現をするものなのか。

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浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。61歳。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載しており、18年4月からは福岡市のソラリアステージで開講中の「よみうりSPACEラボ」講師を務める。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(連載中)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。