第15回「高橋屋平右衛門の家」(福岡市) 昭和通り沿いの天神3丁目 下名島町の目明し、幕吏から追われる月照を篤くもてなす 福岡藩勤皇派と親交

一筆啓上

 勤皇僧月照といえば、西郷隆盛と薩摩錦江湾に飛び込んだ人という印象が強い。

 安政の大獄で幕吏に追われ、京の都から逃げてきたものの、歴史小説、テレビドラマ、映画では、一挙に薩摩へと場面が飛ぶ。

 そのためか、月照が筑前福岡領内を転々と移動していた事実に関心が及ばない。太宰府天満宮の参道にある「松屋」という茶店にかくまわれていたということが、ようやく知られるようになった程度。

 「すぐそこですから、ちょっと、行ってみましょうか」

 白木大五郎氏の案内で月照が匿われたという高橋屋平右衛門の自邸跡に向かった。

 西郷隆盛は、福萬醤油の白木家の蔵に匿われた。月照は、勤皇の目明し・高橋屋平右衛門の自邸に匿われた。

 福萬醤油と高橋屋平右衛門の自邸は隣どうし。その高橋屋平右衛門の自邸跡が現在の「高橋天神ビル」だ。

 ビルを見上げながら、「ここに? 月照が? 本当に? ……」と思った。

 高橋天神ビルの1階には壁紙、紙小物を商う店がある。ここが、高橋屋平右衛門の末裔が営むお店だ。

 突然の訪問にも関わらず、女将さんが掛け軸を持ってきてくださった。匿ってもらったお礼にと月照が遺した和歌が書かれている。

 口伝は、本当だったのだと思った瞬間だった。

 紙小物が並ぶ店内だが、ここが実に、おちつく。

 都心とは思えない静かさ。

 月照も、こんな静かな空間でお香を楽しんだのだろうか。想像をたくましくする。

月照、お礼の歌遺す 頻繁に外部と接触、隣家に隠れた西郷隆盛の密使として活動か 平右衛門は後に遠島に

 ここが、「勤皇の目明し」こと高橋屋平右衛門の家だったのか――と、ビルを見上げた。天神(福岡市中央区)の昭和通りで、今は紙を商っている。昭和20年(1945年)の福岡大空襲で天神地区も灰燼かいじんに帰した。区画整理もあり、高橋屋の場所を厳密に特定するのは難しい。

 安政5年(1858年)、「安政の大獄」で幕吏から追われる身となった勤皇僧月照は、西郷隆盛と西下した。その月照をかくまったのが下名島町の目明し(犯罪捜査役)高橋屋平右衛門だった。

 平右衛門は福岡藩勤皇派の平野國臣、月形洗蔵、鷹取養把、仙田兄弟と親交があった。勤皇派は、「お由羅騒動」で福岡藩に逃れてきた北条右門(薩摩藩士・木村仲之丞)らとつながりがあり、北条の家に転がり込んできた月照を平右衛門が迎えることに。

 一週間ほど、高橋屋に身を寄せた月照は、奥の茶室で旅の疲れを癒した。平右衛門の妻イキは信心深い人だけに、月照をあつくもてなしたのだった。

 不思議なことに、お尋ね者であるはずの月照は頻繁に外出している。まず、北条の案内で太宰府天満宮に参詣し、薩摩藩定宿の「松屋」を訪ねた。ここからさらに、宝満山(太宰府市・筑紫野市)に登る。

 次に武蔵の湯(二日市温泉)に遊び、医師の陶山一貫、原三信らと天拝山(筑紫野市)に登っている。

 そして、平右衛門の家を起点に、平尾山荘(福岡市中央区)の勤皇の女傑・野村望東尼を訪ねた。驚くのは、筥崎宮(福岡市東区)を参詣した際、オランダ人を目にしたという。これは、福岡に来航した長崎海軍伝習所のカッテンディーケたちと思われる。それにしても、その行動はあまりに大胆。

 そこで、考えられるのは、高橋屋の隣家、福萬醤油の蔵に隠れたといわれる西郷隆盛の存在。西郷は月照とは別行動で薩摩へ急いだといわれる。しかし、月照は情勢を探りながら、西郷の密使として黒田長溥ながひろ(福岡藩主、島津家出身)、長崎海軍伝習所・勝海舟との接触を試みていたのではないだろうか。

 月照は平右衛門夫婦にお礼の歌をのこしていた。

 高橋屋に宿りゐて主人夫婦の情いと深ければ

 「答うべき限りは知らじ筑紫路の 海より深き人の情けに」

 後に、月照を匿ったことが発覚し、平右衛門は姫島(糸島市)に遠島となる。妻イキは島に渡り、病に伏せる夫を介抱したという。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。61歳。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載中。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(連載中)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。
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第14回「西郷南洲翁隠家乃跡碑」(福岡市) 親不孝通り西側 勤皇僧月照と西下の西郷隆盛、白木家土蔵に隠れる 筑前福岡の志士たち、身命を賭して庇護

 一筆啓上

 人の縁とは不思議。

 「西郷南洲翁隠家乃跡碑」の取材に応じてくれた白木大五郎氏との出会いは東京だった。互いに在京福岡県人会組織「東京福岡県人会」の会員だったことが機縁。もう、かれこれ、10年ほどの付き合いになる。

 しかし、西郷隆盛をかくまった家の方とは、まったく知らなかった。

 筆者が福岡にUターンし、福岡県内の史跡を訪ね歩いている時だった。由来はわからないが「西郷南洲翁隠家乃跡碑」があると知人が教えてくれた。そこに石碑が「在る」と記載したガイドブックはあっても、背景や事実の記述は何もない。さらに、あの「西郷南洲翁隠家乃跡碑」はマユツバ物という声も聞こえてくる。

 幕末、尊皇や倒幕で活動した人々の情報交換は密書、もしくは密会だった。密書の類は一読後に焼き捨てるのが仲間内の決まり。ゆえに、文書での証拠を見つけ出すのは至難のわざ。

 消化不良の日々を送っているときだった。

 「あれは、ウチの先祖がやったことです」

 白木大五郎氏が口にされる。先祖の白木太七が西郷隆盛を匿ったという。

 早速、白木氏の自宅に上がり込み、太七の位牌を拝する。白木家当主である大五郎氏から黒田家との関係、黒田騒動で醸造業に転じたいきさつまで語っていただいた。

 幕吏に追われる西郷や勤皇僧月照を匿うことは、恩顧ある福岡藩主の黒田家を裏切る行為。ゆえに、口伝として子孫に伝わるだけで、表ざたにはしていない。

 しかし、思い切って碑にしたのが「西郷南洲翁隠家乃跡碑」だった。

 明治維新150周年の今年、150年ぶりに白木太七が表舞台に登場したことを白木大五郎氏は随分と喜んでくださった。これが機縁で西郷隆盛、坂本龍馬、勝海舟の子孫とも交流が始まったという。

 人の縁とは、本当に不思議。

「福萬醤油」営む白木太七、月照は隣家の高橋屋平右衛門宅に匿う 口伝ながら、「目玉の大きな男」と子供のエピソードも

 謎の石碑が福岡市中央区舞鶴の路地にある。「西郷南洲なんしゅう隠家かくれが跡」と彫り込まれたそれは、親不孝通りの西側、居酒屋「兼平鮮魚店」脇にある。一見、客寄せのディスプレイなのかと、目を疑う。

 この碑は、西郷隆盛(南洲)、勤皇僧月照の薩摩落ちの際、ここに西郷が隠れたというもの。案内看板の一枚もなく、いったい、これは何なのかといぶかる人は多い。文献にも記されていないため、信用できないという噂も。

 安政5年(1858年)、いわゆる「安政の大獄」によって幕府から追われる身になった月照は西郷とともに西下した。馬関(山口県下関市)の商人・白石正一郎の邸にたどり着いた西郷たちは、船で筑前福岡藩領の戸畑(北九州市)に上陸。黒崎、木屋瀬を経て、大浜(福岡市博多区)の北条右門(薩摩藩士・木村仲之丞)の家に転がり込む。ここからは、筑前福岡の志士たちが身命を賭して庇護ひごした。同年10月初めの頃である。

 この筑前福岡の志士の一人が「福萬醤油しょうゆ」を営む白木太七だった。現在も親不孝通り東側に醤油専門店「福萬醤油」があるが、戦前の地図を確認すると、碑が立つ場所に「福萬醤油」との記載を認めることができる。

白木大五郎氏提供

 口伝ながらとして、白木家の現当主・白木大五郎氏が事情を語ってくださった。

 西郷、月照を同じ場所にかくまうのは危険と判断した白木太七は西郷を自宅に、月照を隣家の高橋屋平右衛門宅に匿った。

 もともと、白木家は筑前福岡藩家老・栗山大膳の家臣だったが、寛永9年(1632年)の「黒田騒動」に連座し士分剥奪。後に、醸造業に転じた家柄だった。

 その白木家の土蔵に西郷は隠れた。白木大五郎氏の曽祖父・半四郎は子供の頃、目玉の大きな男の人が蔵にいて、チリ紙を買ってきてほしいなどとお使いを頼まれたという。

 残念ながら、白木家に西郷が匿われたとの記録はない。他の文献においても目にしたこともない。

 しかし、月照を匿った高橋屋平右衛門については『加藤司書の周辺』(成松正隆著)に名前があり、事が発覚し島流しになったとも。

 西郷を匿った白木太七は、今も歴史の闇に埋もれたまま。菩提寺は近くの曹洞宗安国寺だが、罪人を出したとの負い目から太七の葬式は出していない。

 明治元年12月10日没。これだけが、西郷を匿った白木太七の真実としてのこっている。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。61歳。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載中。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(連載中)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。

第13回「福岡藩精錬所跡碑」(福岡市) 地下鉄・中洲川端駅出入り口そば 黒田長溥、西洋技術導入に熱意 長崎海軍伝習所のオランダ人教官も見学

一筆啓上

 目的地を探す時、スマートフォンで気軽に検索する方が多い。米グーグルの地図サービス「グーグルマップ」に目的地のポイントが付いているからだ。

 しかし、「福岡藩精錬所跡碑」はそうはいかない。

 NHK福岡放送局の歴史番組「維新の傑物たち」で、福岡藩主の黒田長溥の功績が紹介された。西洋の科学導入に熱心であり、その施設があった場所として精錬所跡碑が紹介された。しかし、映像で紹介されたにもかかわらず、「見つからない……」との声が。

 まず、歓楽街の中洲に史跡など「あるはずがない」という先入観を捨てる。次に、福岡市営地下鉄「中洲川端駅」2番出口を出て、コンビニエンスストアのセブン‐イレブンを目標にする。店の前に立ち、ビルとビルの柱の間をのぞいてみる。

 「こんなところに!」

 かくれんぼで隠れた人を探し当てた時の喜びにも似た声があがるはずだ。

 かくいう私も、真昼の中洲を路地一本に至るまで歩いて「福岡藩精錬所跡碑」を探した経験がある。

 そうまでして見つけたかったのは、長崎海軍伝習所の2代目教官・カッテンディーケの『長崎海軍伝習所の日々』に福岡藩の精錬所が登場するからだ。この精錬所にドクトル・ファン・デン・ブルクの小型蒸気機関が据えてあったとも出ている。ファン・デン・ブルクとは、長崎出島のオランダ商館医であり科学技術に詳しい人物。文献に登場する人名や物、土地などを、実際に現地に足を運んで確認することは、史実の実証として重要だ。

 碑の手跡は福岡市長の阿部源蔵(第22代~24代)。福岡市長の名を刻んだ史跡は福岡市の歴史でもある。大事に後世につないでほしいと願う。

 なお、連載記事中に参考文献として紹介した『幕末の奇跡』(松尾龍之介著)だが、今年のサッカー・ワールドカップ(W杯)ロシア大会期間中、福岡市総合図書館の「ロシア特集」で展示されていた。図書館司書の方の眼力にさすが!と感心した。

航海術、砲術、蒸気機関、英語など教え、造船所・製鉄所も建設―― 最先端の長崎海軍伝習所に、「イカロス号事件」の金子才吉ら多くの福岡藩士

 ようやくにして「福岡藩精錬所跡」の碑を見つけ出した。真昼の中洲(福岡市博多区)を探し歩き、何度、この前を通過したことか。

 この碑は旧福岡藩の精錬所があった場所を示している。蘭学らんがく好き(蘭癖らんぺき)の黒田長溥ながひろ(福岡藩第11代藩主)は西洋の技術導入に熱心だった。この精錬所の他にもガラス工場、オランダ医学の医学校「賛成館」を設け、藩士を長崎海軍伝習所に送り込んだ。

 『幕末の奇跡』(松尾龍之介著)によれば、長崎海軍伝習所では航海術だけでなく、運用術、造船、砲術、天測実技、蒸気機関、鉄砲、医学、数学、英語などを教えていた。さらに、造船所、製鉄所を建設し、日本人学生とともにオランダ人も汗を流した。

 安政5年(1858年)10月、長崎海軍伝習所のオランダ人教官カッテンディーケが長溥の招きで福岡、博多を訪れた。予定に福岡藩の工場見学も入っていたが、その中に、この精錬所も入っている。オランダ人たちから技術指導を受けたいという長溥の目論見もくろみがあったのではないだろうか。

 カッテンディーケの『長崎海軍伝習所の日々』によれば、鋳鉄工場、製銃所、ガラス工場、絹糸工場を見学している。製銃所ではドクトル・ファン・デン・ブルクの小型蒸気機関が据えてあったというから、長溥の西洋技術導入がどれほどの熱意であったかがうかがい知れる。

 ただ、長溥の意向とは裏腹に、カッテンディーケは絹糸工場で作られる博多織に強い関心を寄せた。有名で高価な博多織としてオランダ人には認知されていたのだった。早速、帯地を購入し、ネクタイ、チョッキに仕立て直すことを楽しみにしている。

 長崎海軍伝習所には各藩の学生が学んだが、とりわけ薩摩藩、佐賀藩、福岡藩が送り込んだ学生数は群を抜いている。福岡を訪れたオランダ人一行は自由な行動が許されていたが、水兵の中には旧知の福岡藩出身学生の自宅に招かれ、大変な歓待を受けた者もいたという。

 ちなみに、40名近くの福岡藩出身学生の中に、航海術や測量術を学んだ金子才吉がいる。慶応3年(1867年)7月6日、金子は長崎で事件を起こした。泥酔して路上に寝ていたイギリス水兵(イカロス号乗員)2人を刺殺し、自決した。

 この事件の共犯として取り調べを受けたのが後の外交官・栗野慎一郎(福岡藩・当時17歳)。判事は大隈重信(佐賀藩)だった。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。61歳。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載中。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(連載中)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。

第12回「旧御茶屋跡之碑」(福岡市) 東区箱崎の網屋天満宮境内 参勤交代の諸大名、幕府要人らが宿泊・休憩 箱崎松原・博多湾を一望

一筆啓上

 箱崎(福岡市東区)という地名を聞いて、何を思い出されるだろうか。少し前であれば九州大学の学生街だろうか。

 しかし、医学部、付属の大学病院を残し、大学は伊都キャンパス(福岡市西区元岡)に移転となった。今では人気ひとけもなく寂しいばかり。上空を見上げると福岡空港に着陸するカラフルな旅客機、博多湾に面しては貨物コンテナ埠頭、幹線道路の国道3号線、都市高速道路が視界に入る。古くから交通の要衝であることに変わりないが、その変貌ぶりには驚くばかりだ。

 その箱崎が大きく変貌を遂げる以前、箱崎浜には水族館があった。水族館といっても、魚類はもとより、海獣、鳥類までもがいたという。その水族館はなくなってしまったが、館長を務めた方の末裔が「箱崎水族館喫茶室」という記念館を兼ねた喫茶店を開いている。

 水族館の魚は千代町の水茶屋「常盤館」の活き魚料理になり、九州帝国大学(現在の九州大学)の学生の解剖実験に提供され、さらにはオットセイなどのエサにもなったという。

 近年、この箱崎では夢野久作の小説『犬神博士』に関係する高麗犬こまいぬ地蔵堂が確認されたばかり。まだまだ眠っている歴史遺産が見つかること、期待大の箱崎である。福岡藩の「旧御茶屋跡之碑」もその一つだった。

 ちなみに、「箱崎水族館喫茶室」については、拙著『玄洋社とは何者か』にも書いたので、興味があれば一読いただきたい。

長崎海軍伝習所のオランダ人教官も訪問 招いた藩主・黒田長溥が歓待 福岡・博多の数千人が見物、今も昔も「新しもの好き」!

 安政5年(1858年)、長崎海軍伝習所のオランダ人教官カッテンディーケが薩摩を訪ねた。カッテンディーケが著した『長崎海軍伝習所の日々』には、薩摩の島津斉彬なりあきらが西洋科学の取り組みに積極的な様が描かれている。

 そのカッテンディーケは、同じ年の10月18日(日付は旧暦)、福岡に来航した。咸臨丸、エド号での訪問だったが、これは福岡藩第11代藩主黒田長溥ながひろ(筑前侯)のかねての望みにより計画されたもの。薩摩に劣らぬ福岡。蘭癖らんぺき大名の長溥とすれば、薩摩の斉彬が進めた技術立国の意志を藩内にアピールする狙いがあったのではないだろうか。

 長溥は一行の訪問を大歓迎した。その象徴として、出迎えに8頭の立派な馬を用意するほど。初めて異人を目にする見物人も大勢押し寄せ、その数は数千にも及んだという。昔も今も、福岡・博多の人々の「新しもの好き」に変わりはないようだ。

 一行の滞在は、10月21日までだが、先述の著書を読み進むと、藩侯の邸にあいさつに出向き、博多の町を散歩している。それはまるで、オランダに帰ったのではないかと錯覚を覚えるほど、との記述がある。下屋敷のある「箱屋津」までは海岸沿いに美しい松並木の道路が延び、(オランダ東部の州)ヘルダーランドの風色を想起したとカッテンディーケは絶賛した。

 この箱屋津の下屋敷で思い浮かんだのが通称「お休み所御亭(オチン)」。参勤交代の諸大名、重臣や幕府要人の宿泊、休憩に利用され、茶室からは箱崎松原、博多湾を一望できたという。長崎出島のオランダ商館長の江戸参府は大名と同じ扱い。カッテンディーケも長溥から箱屋津に招かれ、鶴や鴨肉、刺身という豪勢な食事のもてなしを受けた。

 下屋敷(御茶屋)があったと思われる箱崎(福岡市東区)を訪ねた。近在の方々が「お天神さま」と親しむ網屋天満宮一帯がそれになる。近年、再開発が進み、マンションが立ち並ぶが、ここだけは時間が止まったかのような安堵あんど感、懐かしさを覚える。九州大学構内から移設した「鯨塚」(博多湾で捕獲した鯨を慰霊する碑)もあり、海が近かったことが実感できる。

 境内では、親子連れがセミ捕りに興じていた。お願いして、道に面した「旧御茶屋跡之碑」と一緒にファインダーに納まってもらった。

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浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。61歳。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載中。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(連載中)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。