第30回「五卿西遷之遺跡」碑(宗像市) 赤間の県道沿い 長州から福岡へ 尊攘派公卿・三條実美ら滞在

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第28回「石堂川の関所跡」(福岡市) 博多区中呉服町 高杉晋作、商人装い関所通過 対馬藩蔵屋敷に再潜入

一筆啓上

 西南戦争時、薩軍が落とせなかった熊本城。加藤清正の築城の技術力には驚くばかりだ。

 その加藤清正から「築城の名手」とたたえられたのが、初代福岡藩主の黒田長政だった。現在の大濠公園(福岡市中央区)は博多湾に続く入江だったが、堀に仕立て、福岡城を天然の要塞にした。

 同じく、有事に備え、石堂川(現在の御笠川)の西岸沿いには寺を並べた。その役割を果たした一行寺、海元寺周辺を探索している時、電柱に史跡を示す看板を発見。読んでみると、長州藩に帰藩するため高杉晋作が石堂橋を渡ったという。

 「ふーん、高杉がこの橋を渡ったのか……」

 「しかし、なぁ……」。疑問が沸き起こる。

 福岡藩に亡命し、長州に帰る高杉ならば、野村望東尼の平尾山荘から直接に対馬藩邸に入ったはず。

 それが、なぜ、再び対馬藩邸に?

 理由は、一度は福岡を離れた高杉だったが、再び、福岡に戻らねばならない用事ができたからだった。

 「なるほど、なるほど……」と納得し、スリル満点の高杉の辿たどった道を歩いた。

 ちなみに、高杉は太宰府天満宮の祭神である菅原道真を崇敬していた。自身の変名に谷梅之助、息子には梅之進と、道真がでた「梅」を用いている。自作の漢詩にも、「菅相公」「天拝の峰」など、道真に縁の言葉を織り込むほどの「道真オタク」。

 なお、高杉は現在の博多区大博町の浜に出て、対馬藩邸を目指して一目散に走った。その走ったルート上に「立石ガクブチ店」の裏口がある。先述の高杉の史跡を示す電柱看板を取り付けた店である。

 「断りなしに、高杉はウチの裏を通って逃げたとですよ……」

 店主の立石さんがカラカラと笑いながら語ってくれたのが印象的だった。

立石ガクブチ店

長州報国隊の野々村勘九郎と合流 海路で長州・馬関に帰着 挙兵へ

 筑前福岡に亡命した高杉晋作だったが、長州での挙兵を決意して帰藩の途についた。しかし、途中で長州報国隊の野々村勘九郎が博多に向かったことを知り、後を追いかけた。高杉は博多への入り口に近い、水茶屋「若松屋」に潜み、対馬藩蔵屋敷へ再潜入する機会をうかがっていた。

 今回、高杉が再潜入で通過した石堂川(現在の御笠川)の関所跡周辺を歩いた。関所跡は博多区中呉服町の御笠川にかかる石堂橋、現存する一行寺、海元寺が目標となる。寺の前の電柱には高杉が関所を通過したとする案内看板が付いている。

 高杉は、夜になって石堂川東岸沿いの若松屋の提灯ちょうちんを下げて関所に入った。そのそばを筑前勤皇党の瀬口三兵衛が歩く。それはまるで、若松屋の使用人が武士を道案内するかのよう。石堂川西岸には、遊郭の旧柳町があり、遊び人を案内する風にしか見えない。これには、関所の役人も含み笑いしながら見送ったことだろう。

 この時、高杉は野村望東尼から贈られた商人風の印半纏しるしばんてんを身にまとい、背中には若松屋の幼女を負ぶっていた。高杉が若松屋に隠れているとき、なついて離れなかった子供だ。意図せず、この偶然が功を奏した。

 ところで、長州を脱出する直前、高杉には男児が誕生していた。つい、幼女に我が子の姿を重ね合わせたのだろう。高杉亡命時の変名は谷梅之助だが、息子の梅之進からとっている。

 無事、関所を通過した高杉、瀬口は柳町の遊郭「梅が」に繰り込んだ。ここで、豪快に遊蕩ゆうとう三昧したが、疑いの目を避けるための演技なのか、遊びであったのかはわからない。

 旧柳町の「梅が枝」があった場所は、現在、福岡市立特別支援学校「博多高等学園」がある。ここにも電信柱に案内看板があるので、確認は容易。学園裏手は御笠川に面しているが、高杉も「梅が枝」裏手から小舟で川を下り、現在の博多区大博町たいはくまちに面した浜に出た。ここからは猛ダッシュで対馬藩蔵屋敷に駆け込んだ。つい数日前、送別のうたげを開いたばかりのところに高杉らがなだれ込み、蔵屋敷も大変な驚きだったろう。

 元治元年(1864年)11月23日頃、野々村勘九郎と合流できた高杉は船で馬関(現在の山口県下関市)へと急いだ。無事に、11月25日頃、帰着したという。

 「まことにまことに、日本第一の人」と望東尼は高杉を絶賛した。その日本一の男が歩いた道は、まことにスリルに満ちていた。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から2018年12月まで読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(2017年6月~2018年12月)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。

第27回「常盤館跡碑」(福岡市) 博多区千代 亡命の高杉晋作、潜伏して再入国の機会窺う

一筆啓上

 偶然なのか、必然なのか。

 高杉晋作が隠れていたという水茶屋の「常盤館」は、後年、辛亥革命の孫文も亡命中にかくまわれていた場所と伝わる。

 さらに、この孫文をヒト、モノ、カネで全面的に支援した玄洋社のメンバーも、この常盤館を利用していた。

 西南戦争後、山口の監獄から釈放された頭山満らが祝宴を張り、政財界の人々が集い、さらには、先述の孫文が中華民国を建国し、来福した際の歓迎会も開かれた。

 その常盤館の跡碑が福岡市博多区千代2丁目にあるのは知っていた。

 しかし、これが、実に分かりづらい。幕末史、近代史、さらには中国革命の史跡として訪ねてきた遠来の方々は「分からない。見つからなかった」と口にされる。地元の地理に詳しい人の先導がなければ、容易には発見できない。今もって、なぜ、これほど見つけにくい場所に碑があるのか、不明。

 早稲田騒動(現在の早稲田大学での紛争)の指導者で小説家として名をのこす尾崎士郎は、朝日新聞に「高杉晋作」を連載していた。その際、現地調査のため東公園の常盤館と山口とを往復したと『私学校蜂起』(西南戦争に関する小説)のあとがきに記している。

 尾崎が「常盤館」に腰を据えたのは、亡命者高杉の心境を知りたかったからなのか、博多の風土が気に入っていたからなのかは、知らない。

 いずれにしても、再開発の波に襲われる前に確認しておいたが無難であるのは間違いない。

江戸時代は「若松屋」と呼ばれた水茶屋 座敷には逃走できる仕掛け 筑前勤皇党・月形洗蔵からの連絡待つ

 亡命者が潜んでいた場所とはいえ、それを示す石柱まで隠れることはなかろうに。高杉晋作が隠れたと伝わる「常盤館跡碑」を見て、思った。

 碑は福岡市博多区千代2にある。市営地下鉄「千代県庁口」の1番出口から徒歩数分。天神からなら明治通りを県庁方面に進み、御笠川を越えた右手のガソリンスタンドが目標。その隣のビル1階の外壁沿いにあるのだが、物陰にひっそりたたずんでいるので簡単には見つからない。

 江戸時代、「若松屋」と呼ばれた水茶屋は、明治になり「常盤屋」と屋号を変え、その後、「常盤館」と名を改めた。いずれにしても、酒食を楽しむ茶屋であったことに変わりはない。

 しかし、この茶屋の座敷には仕掛けがあり、床の間の掛け軸の裏には人が通り抜けられる隙間が設えてあった。身長1メートル60ほどの高杉にはうってつけの隠れ場所。高杉は、この茶屋で筑前勤皇党の月形洗蔵からの連絡を待っていたが、危険を察知すればいつでも逃走できるように構えていたのだろう。

 ここで、当時の高杉の筑前福岡亡命の足跡をたどると、馬関(山口県下関市)から博多区須崎町にあったという石蔵屋に入り、佐賀県鳥栖市にあった対馬藩の飛び地である田代代官所に向かった。そして、平尾山荘(福岡市中央区平尾)への潜伏である。ところが、平尾山荘に向かう前に潜伏した茶屋が「若松屋」との説がある。なぜ、何の目的で、この「若松屋」に潜伏したのかが不明だった。

 実は、平尾山荘に向かう前ではないという概要が分かったのは、筑前勤皇党の早川いさむの存在だった。

 元治元年(1864年)11月21日頃、高杉は対馬藩蔵屋敷で長州帰藩の宴に臨み、早川の自宅がある宗像に到着したと伝わる。この時、長州藩報国隊の野々村勘九郎が博多に向かったことを知る。奇兵隊と関係が深い野々村から情報を引き出そうと、再び博多に逆戻りしたのが真相だった。宗像では、有名な話という。

 しかし、筑前福岡を出た者が、再び石堂川(現在の御笠川)の関所を通過するのは至難のわざ。そこで、「若松屋」で再入国の機会をうかがっていた。同時に、身辺を庇護ひごしてくれる月形からの連絡を待っていたのだった。

 現代のような通信手段がない中、待つ者、待たせる者、互いに心中は穏やかでなかったのは想像に難くない。目につきにくい場所に碑があるのも、亡命者を匿ったという由来からなのかと、苦笑いした。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から2018年12月まで読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(2017年6月~2018年12月)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。

第26回「平尾山荘跡」(福岡市) 中央区平尾 野村望東尼が夫と隠居生活 潜伏した高杉晋作、起死回生の挙兵決意

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第25回「石蔵酒造」(福岡市) 博多区堅粕(現在) 亡命の高杉晋作が潜伏、再起図る 主人の石蔵卯平、月形洗蔵ら筑前勤皇党と連携

一筆啓上

 福岡市博多区に「対馬小路」と表記される地名がある。

 多くの方は、ツシマコウジ? ツシマショウジ? と自信なげに口にされる。
「ツマショウジ」と読むのだが、なぜ、博多の地に対馬という地名があるのか。
 不思議……。

 これは、もともと、この地に対馬藩の蔵屋敷があったことから付けられた。

 対馬藩は幕府から薬用朝鮮人参の独占貿易を認められ、10万石の大名と同格に扱われた。しかし、対馬は米を十分に収穫できる地ではない。そこで、肥前田代領(現在の佐賀県鳥栖市上町)に飛び地を持ち、そこで収穫された米を博多の蔵屋敷に集めた。その蔵屋敷があったことから「対馬小路」という地名が遺った。

 そして、この対馬小路の地で海運業を営んでいたのが「石蔵屋」。

 この石蔵屋の主人は石蔵卯平いしくらうへいといって、勤皇の志が篤い商人だった。高杉晋作の筑前福岡への亡命では、身命を賭して晋作を庇護したのだった。

 現在、「石蔵屋」は福岡市博多区堅粕に移転し、酒造業を営んでいる。

 ギャラリーのような酒蔵の一画に、維新史に登場する志士たちのパネルがあり、「石蔵屋」の主人卯平と志士たちとの交流の歴史を楽しむことができる。

 「意外だった……」。こんな歴史ファンの声を聞くことができるのである。

後に奇兵隊入りの石蔵卯平 高杉を匿ったのが機縁か 金銭・情報面で勤皇派支援 功績認められ靖国神社に合祀

 石蔵酒造という造り酒屋が福岡市博多区堅粕にある。「博多百年蔵」と言ったほうが分かりやすい。蔵は国道3号に面しているが、ここは明治3年(1870年)に第二酒造場として設けられたところ。それ以前は、現在の博多区須崎町にあったと伝わる。始まりは、福岡藩主の黒田家に従い筑前に来た石蔵屋。魚問屋、対馬藩の運送用達を生業とした。須崎町の北側には対馬小路つましょうじという地名が残るが、これは対馬藩の蔵屋敷がこの地にあったことに由来する。

 文久3年(63年)、長州藩は英米仏蘭の四か国艦隊に砲撃を仕掛け敗北。その講和使節は高杉晋作だった。その堂々とした応対ぶりは、アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』に詳しい。

 しかし、同年の「八月十八日の政変」、元治元年(64年)の「禁門の変」で長州藩は幕府の圧力に屈し、俗論党が政権を掌握した。高杉は再起を期すため、身を潜める必要があった。

 俗論党によって拘束されかけた高杉は、まず、馬関(山口県下関市)の豪商・白石正一郎を頼った。さらなる逃避行には、久留米藩真木和泉の門弟渕上郁太郎、福岡脱藩浪士の中村円太えんたが関わった。

 同年11月、高杉は筑前福岡に亡命した。谷梅之助と変名した高杉が潜伏した先は石蔵屋。主人の石蔵卯平いしくらうへいは筑前勤皇党の月形洗蔵、鷹取養巴たかとりようはと親しく、先導役の円太とも顔なじみ。常日頃、卯平は勤皇党の志士に金銭の都合をつけ、情報を提供するなど協力的だった。それは対馬藩の勤皇派に対しても同じだった。

 文久2年(62年)、対馬藩と長州藩は同盟を結ぶが、これは前年のロシア軍艦ポサドニック号が対馬を占領した影響が大きい。こういった内外の動き、変化に卯平は迅速に反応したが、それは高杉受け入れにも見て取れる。

 卯平は後に、高杉が創設した奇兵隊に身を投じる。自邸での高杉との出会いが機縁となったのは想像に難くない。残念ながら、明治元年(68年)、卯平は同志と長崎に赴いて後、肥後・天草で何者かによって惨殺された。

 しかし、卯平がいたことで、高杉は再起できた。変化を読み取るに敏な卯平と高杉は、維新の先に何を見、何を語っていたのだろうか。須崎町から堅粕をめぐりつつ考えた。

 なお、功績が認められ、明治26年(93年)、卯平は靖国神社に合祀ごうしとなった。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から2018年12月まで読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(2017年6月~2018年12月)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。