第5回「五卿遺蹟」の碑(太宰府市) 天満宮・延寿王院 京の都追われた五卿が滞在、中岡慎太郎ら大勢の脱藩浪士が随従

一筆啓上

 太宰府天満宮は「維新の策源地」です。

 そう説明すると、怪訝けげんそうな表情を見せる方がいる。太宰府天満宮は「学問の神様」では……と言わんばかり。

 続いて、あの坂本龍馬も太宰府天満宮を訪れたと告げる。

 たいていの方は「嘘でしょう!?」と驚く。嘘でもなんでもなく、三條実美をはじめとする五卿が滞在した「延寿王院」前の看板に出ている。他にも、西郷隆盛、高杉晋作らも訪れたとの記述がある。

 「学問の神様が嘘を言うわけないでしょ」

 「確かに……」

 看板には記載されていないが、志士たちが、いつ、何の目的で太宰府天満宮を訪れたのかは下記の通り。

  • 西郷隆盛
    慶応元年2月下旬(24日頃)、五卿受け入れに関する筑前勤皇党との会談で
  • 高杉晋作
    元治元年11月11日~21日、天神信仰のための参拝といわれる。口伝として、参道の大野屋に宿泊したと『筑紫史談』に記述がある
  • 坂本龍馬
    慶応元年5月23日~28日、五卿との面談で

 幕末史からみて、太宰府天満宮は維新の策源地だった。薩長同盟に至る薩長和解も、筑前勤皇党の月形洗蔵、早川勇らが身命を賭して斡旋した結果だ。「歴史は勝者によって作られる」。維新において敗者の立場となった筑前福岡藩の功績は封印されたまま。それだけに、この福岡の維新に関する事績を追うと、驚きの連続になるのだ。

 なお、この太宰府天満宮・延寿王院には、遠く水戸藩からも五卿の随員としてやって来た者がいる。藤岡彦次郎こと斎藤左次右衛門。なぜ、太宰府までという疑問には、『幕末の魁 維新の殿』(小野寺龍太著)が参考になる。

五卿警備に筑前福岡など五藩から150人余 幕末史に登場の志士たちが去来 食料・旅館の需要急増、“バブル景気”に沸く

 太宰府天満宮参道の中ほどには炭鉱王・伊藤傳右衛門でんえもんの名を刻む鳥居がある。出奔した柳原白蓮びゃくれんとの離婚騒動で世間を賑わせた。土産物店の「小野筑紫堂」を目印にするとわかりやすいが、この鳥居を潜った頃、正面に三條さんじょう実美さねとみら五卿が滞在した延寿王院えんじゅおういんの「五卿遺蹟いせき」の碑が見えてくる。

 いわゆる文久3年(1863年)「八月十八日の政変」で京の都を追われた三條実美ら五卿が、延寿王院に入ったのは慶応元年(1865年)2月13日のことだった。この時、五卿だけではなく、脱藩浪士41人、馬捕まとり小者こもの25人など、多くの随従者がいた。脱藩浪士には土佐の土方ひじかた楠左衛門くすざえもん久元ひさもと(明治政府の宮内大臣)、大山彦太郎道正こと中岡慎太郎(1838~1867年)も含まれている。

 この脱藩浪士の内訳をみると、土佐藩、久留米藩、水戸藩、膳所ぜぜ藩だが、なかでも土佐藩が12人と最も多い。興味深いのは、久留米藩の中に鏡五郎こと真木外記まきげきがいることだ。あの久留米水天宮宮司であった真木和泉いずみの実弟である。元治げんじ元年(1864年)7月、真木外記は兄の和泉とともに「禁門の変」に参戦したが敗退。真木和泉は京都・山崎で自決した。

 延寿王院には五卿警備として筑前福岡藩、薩摩鹿児島藩、肥後熊本藩、肥前佐賀藩、筑後久留米藩の守衛士がおり、その総数150人余。その他諸役を入れると、どれほどの員数がいたのか正確には分かっていない。まるで、一夜にしてひとつの町が出来上がったのも同じだった。供給不足から食材などが値上がりし、ちょっとしたバブル景気に沸いた太宰府だった。

 不足するのは食材だけでなく旅館も同じだった。延寿王院を始め、社家しゃけの小野加賀かが、小野伊予いよ、小野但馬たじまの邸、宿坊の執行坊しぎょうぼう満盛院まんせいいんなども宿舎に割り当てられた。先述の「小野筑紫堂」は社家の小野伊予(通称南小野)であり、福岡藩の宿舎だった。記録に残る福岡藩守衛士を確認すると、筑前勤皇党の月形洗蔵つきがたせんぞう、野村助作(野村望東尼ぼうとうにの孫)、万代十兵衛らの名がある。

 中国人観光客に人気の牛の座像に隠れ、見落としがちなのが延寿王院そばの案内看板。そこには、由来とともに、西郷隆盛、高杉晋作、坂本龍馬ら維新の志士たちが去来したと記されている。幕末史に登場するヒーローたちも、慌ただしくこの地を往来した。日本の変革は、ここから始まったのだと確信する。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。61歳。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載しており、18年4月からは福岡市のソラリアステージで開講中の「よみうりSPACEラボ」講師を務める。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(連載中)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。
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第4回「和魂漢才碑」(太宰府市) 「安政の大獄」の年に建立、今は天満宮の手水舎そばに 日本文化を大切にする言葉 尊皇思想に影響与えた平田篤胤が普及させる

一筆啓上

 太宰府天満宮の手水舎のそばにありながら、誰も気づかないのが「和魂漢才碑」。この碑を建てるにあたって、勤皇僧月照が歌を遺している。

<赤心報国の人々いひ合せて太宰府の聖廟に和魂漢才の碑を建つると聞きてしきしまや大和心のひとすぢに いと畏くも立つる石文>

 碑左手には「和魂漢才碑」を建てる際の寄進者の名を刻む石塔がある。この石塔の正面には、松屋孫兵衛、楠屋總五郎らの名前を確認できる。松屋孫兵衛(栗原順平)とは、月照を自邸にかくまった「松屋」の主である。

 また、この寄進者の石塔には馬関(下関)の豪商・白石正一郎の名もあるという。しかし、経年劣化とこけに覆われ、容易に白石の名前は見つからない。

 この「和魂漢才碑」を見ながら思うのは、清朝末期の中国革命の志士・りょう啓超けいちょう。「戊戌政変」で身辺が危うくなったところを伊藤博文に助けられ日本に亡命。その梁啓超が詠んだ漢詩に、勤皇僧月照、西郷南洲が登場する。「日本の明治維新は中国革命の第一歩」と孫文は述べた。梁啓超、孫文ら中国革命の志士たちは日本の明治維新を意識していた。

 しかし、手水舎に集う中国人観光客は無関心。少しは、碑に注意を向けるよう、教えてあげるべきでは?

 なお、松尾龍之介氏の『鎖国の地球儀』は文章もさることながら、豊富なイラストが目を楽しませてくれる。江戸時代の人々が世界の国々をどのように理解していたかが一目瞭然――。

菅原道真にちなみ、子孫の五条為定が揮毫 気になる一行「革命国風深可加思慮也」 世界情勢知る九州、筑前福岡藩 幕府に代わる王政復活の主張込めたか

 太宰府天満宮の手水舎てみずやの水盤は日本でも有数といわれる。その巨大な一枚岩は、宝満山から切り出したもの。それにしても、外国人観光客の人垣で割り込む隙もない。

 その手水舎の右後方、樹木の陰に「和魂漢才碑」と呼ばれる碑がある。「和魂漢才」とは、幕末の尊皇思想に大きな影響を与えた国学者の平田ひらた篤胤あつたね(1776~1843年)が普及させた言葉である。「漢学に精通しつつも、日本文化の心は失わない」という考えからきている。遣唐使を廃止し、日本独自の文化を尊重した菅原すがわらの道真みちざねにちなんで建てられたと伝わる。

 この「和魂漢才碑」を詳細に見ていくと、面白いことに気付く。建てられたのがあの「安政の大獄」が起きた安政5年(1858年)である。揮毫きごうは道真の子孫でもある五条ごじょう為定ためさだ。道真自身、大宰府に左遷されても天皇崇拝の人であった。碑の文中に「革命国風深可加思慮也」(革命の国風は深く思慮を加えるべきなり)との一行は気になる。読み方によっては、外圧に屈する幕府など倒してしまえとも受け取れる。

 いささか、過激とも国粋主義的とも受け取れる言葉だが、平田篤胤は海外事情に詳しい人だった。平田は長崎の天文地理学者西川にしかわ如見じょけんの著作を通じ東洋思想の優位性を理解していた。

 『鎖国の地球儀』(松尾龍之介著)によれば、平田の思想は「和魂洋才」を奉じた佐久間さくま象山しょうざん(勝海舟の義兄)の「東洋道徳、西洋技術」に通じる。西洋近代の技術、世界情勢は長崎を通じて、九州各地では周知の事実だった。知らぬは「奥座敷」の幕府要人と権威主義の取り巻き連中だった。

 筑前福岡藩は幕府から一年交代での長崎港警備を命じられていた。長崎には太宰府天満宮の末社もあり、自然と世界の動向は太宰府にも届く。尊皇攘夷じょういといいながら、日本は世界の趨勢すうせいに逆らえない状況であることも分かっていた。西洋に疎い幕府に代わり、王政を復活させるべきだ。幕府の弾圧(安政の大獄)何するものぞ。そんな主張が「和魂漢才碑」に込められている気がしてならない。

和魂漢才碑(松屋孫兵衛) この「和魂漢才碑」のそばに碑を建てた寄進者の碑もある。刻まれた名前を辿たどっていくと、松屋孫兵衛の名前を確認できた。あの月照げっしょうかくまった「松屋」主人孫兵衛(栗原順平)である。薩摩藩や月照に対する情実だけではなく、納得づくで行動した志士だった。

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浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。61歳。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載しており、18年4月からは福岡市のソラリアステージで開講中の「よみうりSPACEラボ」講師を務める。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(連載中)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。

第3回 「七卿記念碑」(太宰府市) 太宰府天満宮・延寿王院前 「七卿落ち」を刻む

一筆啓上

 東京都文京区大塚には、護国寺という寺がある。ここは徳川家の菩提寺だが、明治期以降、近代の著名人の墓が多く設けられた。大隈重信、山縣有朋、野間清治、血盟団事件で射殺された団琢磨など。それら墓碑群の中に三條実美の墓を見つけた。維新史に関係する人物の墓があることに、意外な感じがした。しかし、護国寺は宮内庁が管理する豊島ヶ岡御陵に隣接している。三條は皇室との関係を重視して、ここを望んだのだろう。

 三條実美の墓所に、一基の碑が立っていた。文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」で京の都を追われ長州へと落ちていったことが刻まれている。いわゆる「七卿落ち」を述べたもの。さらに、長州から筑前太宰府天満宮の延寿王院に移ったことなども。官位を剥奪され、石もて追われた身には、終生、忘れることのできない痛恨事――。

 その三條の墓を見たからかもしれない。太宰府天満宮・延寿王院門前の「七卿記念碑」が不憫に思えて仕方なかった。誰も気づかない。せめて、案内看板の一つでもあれば、人々の関心が高まるのにと悔やまれる。

 太宰府天満宮では「神苑石碑いしぶみ巡り」という冊子を用意している。これを読むと、月形洗蔵(福岡藩・筑前勤皇党)が太宰府天満宮の祭神である菅原道真にちなみ、三條ら五卿を太宰府へ誘ったと記されている。菅原道真も都を追われ大宰府に赴いたが、後に名誉を回復し、今では「学問の神様」として崇敬されている。

 そんな「復活の聖地・太宰府」を訪れ、この「七卿記念碑」をじっくりと見ていただきたい。

七卿、命がけの逃避行 五卿は筑前勤皇党(福岡藩)の斡旋で天満宮へ 太宰府、勤皇の志士が往来する維新の策源地に

 近年、博多港には大型クルーズ船が頻繁に入港してくる。その乗客の多くは中国人だが、大型バスを連ね、一路、太宰府天満宮を目指す。その中国人観光客の人気スポットが延寿王院えんじゅおういん前の牛の座像。

 その門前市を成す延寿王院左手に、誰も関心を示さない石碑がある。レリーフがめ込まれているが、一見、自然石にしか見えない。これは「七卿記念碑」と呼ばれるものだが、いわゆる「七卿落ち」を具象化したもの。文久3年(1863年)8月18日、尊皇攘夷じょうい派の七卿らが京の都から放逐された。歴史年表では「八月十八日の政変」と記される。

 ここでいう七卿とは、三條実美さんじょうさねとみ三條西季知さんじょうにしすえとも東久世通禧ひがしくぜみちとみ壬生基修みぶもとなが四條隆謌しじょうたかうた錦小路頼徳にしきのこうじよりのり澤宣嘉さわのぶよしを指す。

 嘉永6年(1853年)、アメリカのペリー艦隊が浦賀沖に姿を見せたことから、尊皇攘夷運動は加速した。これに対し、公武合体派は協調を優先し、幕府に抵抗する尊攘派をクーデターにより排除したのだった。

 一時期、尊攘派は政治の主導権を握っていただけに、その謀略による失墜は骨の髄までこたえた。七卿は悪天候の中、逃避行を続け、長州藩領へとたどり着く。ここで錦小路頼徳は病死、澤宣嘉は再起を期していずこへと身を隠した。

 さらに、幕府は討伐軍を長州に向けたが、筑前勤皇党(福岡藩)の斡旋あっせんにより、五卿は延寿王院に転座(移転)することができた。

 そして、ここで一転、五卿を迎えた太宰府天満宮は維新の策源地となる。

 「江戸を見たくば宰府さいふにおじゃれ 今に宰府は江戸になる」(当時の俗謡)

 宰府とは太宰府のことだが、諸国の勤皇の志士が盛んに往来し、参詣人に加えて近在の物見高い人びとで盛り上がりを見せた。まさに、現在の延寿王院前と同じ賑わいが150年前にもあったのだ。

 周囲の騒ぎをよそに、延寿王院主の大鳥居おおとりい(西高辻)信全しんぜんは三條実美と京都の岩倉具視いわくらともみ(明治政府の外務卿、右大臣)との間をひそかにとりもった。薩長和解、同盟へと至る過程では強固な信頼関係を求められるが、三條の父実万さねつむと大鳥居信全とは従兄弟いとこの関係だった。

 今、雑踏の中に埋もれてしまった「七卿記念碑」だが、地元福岡の先人たちが生命いのちがけで成し遂げた一大事業が隠れている。それだけに、少しは目を向けてほしい石碑なのだ。

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浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
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第2回「光蓮寺」(太宰府市) 自決した志士、土佐勤皇党・山本忠亮の墓碑が遺る

一筆啓上

 なんで、こんな所に?

 山本忠亮の墓碑は、光蓮寺の白壁と鐘楼との間、幅1メートルもあるかないかの所にあった。

 そうとは知らず、山門を潜り、納骨堂のところにまで行って確認するが、ない。「おかしいなぁ」と思いながら、再び山門に戻りかけた時、墓石が目に入る。これだ!と歓喜して、棹(墓石)を確認する。

 お墓を見て回って、何が楽しいの?

 多くの方にあきれられる。しかし、これが実に、興奮する。歴史書の人物を墓石に確認すると、本人と面会したかのごとく血が騒ぐ。本当に、この世の人だったのだ!と。ゆえに、立体的な歴史遺産が墓石。

 今回、確認したのは土佐勤皇党の山本忠亮。尊王攘夷派公卿・三條実美の警護役として、遠く太宰府の地に来た。それでいて、肺結核で余命いくばくもなく、役目を果たせないとして自決した。幕末維新史を読む中で、悲しい話は多い。この山本もその一人。中岡慎太郎、土方久元らと共に思い出してほしい一人だ。

 4つの墓石が並んでいるが、これをファインダーに収めるのは一苦労。斜めから撮影し、上から撮影し、彫り込まれた文字を確認するため接写を試みた。手前の2本は勤皇僧月照を庇護ひごした「松屋」の主、松屋孫兵衛こと栗原順平。山本の墓碑の後ろの「中村家」は高杉晋作を隠し部屋にかくまったと伝わる中村宗吾の墓。墓碑裏面、側面には五卿に関しての事々が彫り込まれている。が、墓石に欠けがあり、痛々しい。

 寺の前は、駐車場から太宰府天満宮に続く参道。多くの参拝者、観光客が通っていく。しかし、ここに幕末維新の志士たちの墓石があるとは、知らないだろう。

 ぜひとも、高知県(旧土佐藩)の方には、山本忠亮の墓に気付いてほしい。

太宰府滞在中の五卿の警護役 大事を前に決死の行動 三條実美が哀悼の歌 五卿警備の志士を奮い立たせる

 太宰府市の西鉄太宰府駅前交差点は、太宰府天満宮の参道と直結している。周囲の景色は参詣人、観光客、修学旅行生で彩られた感がある。

 その交差点近くに浄土真宗梅木山光蓮寺がある。近在の方は「光蓮寺さん」と親しみを込めて呼ぶ。

 ここには土佐勤皇党山本(兼馬)忠亮ただすけの墓碑がのこされている。「旧薩摩藩定宿」の看板がある「松屋」を訪ねたとき、現当主の栗原雅子さんに教えてもらった。

 幕末、太宰府は維新の策源地として諸国の志士が往来するところだった。山本は患っていた肺病(肺結核)の身では、志士としての務めは無理として割腹自決した。

 山本の墓碑は光蓮寺の鐘楼と白壁のわずかな隙間にあった。墓地を整理する際、棹(墓石)だけは遺してほしいと松屋の栗原家が懇願した結果だった。

 墓碑は4基並んでいるが、手前が栗原順平夫婦のもの。次に、明治44年(1911年)11月に維新に功績があったとして従五位を贈られた栗原順平の碑がある。その後ろに、山本忠亮の墓碑はあった。その碑の並び方をみると、まるで、我が子をかばい慈しむかのようだ。栗原順平とは、勤皇僧月照を自邸にかくまった松屋主人孫兵衛のことである。

 山本の墓碑正面には、「山本忠亮藤原正胤」と彫られ、右肩に「贈従五位」との文字をわずかに認めることができる。『中岡慎太郎陸援隊始末記』(平尾道雄著)のページをめくると、慶応2年(1866年)5月9日、山本忠亮は屠腹とふく(切腹)した。肺病で床に伏せ、身体は衰弱しきっていた。太宰府に滞在する三條実美さねとみ(尊攘派公卿、明治政府の太政大臣)の警護役だったが、役に立たない身として自死したのだった。25歳という若さである。

 この頃の太宰府・延寿王院には、三條実美以下五卿が滞在していた。幕府は、月照と同じく、五卿をお尋ね者として大坂へ連行しようとした。その任を帯びた幕府目付の小林甚六郎を警衛の志士たちは返り討ち覚悟で襲撃の機会をうかがっていた。緊迫の度を増す中、山本は生きて辱めをうけるくらいならと切腹を切望した。願いの儀は聞き届けられ、山本は最後の力を振り絞って刃をわが身に立てた。

 「つるぎたちわが身のうきにそひきつつ旅ちの露と消えし人はも」

 三條は哀悼の歌を贈った。

 この山本の決死の行動は、五卿警備の志士たちに深い感銘と奮起を促したという。

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浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。61歳。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載しており、18年4月からは福岡市のソラリアステージで開講中の「よみうりSPACEラボ」講師を務める。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(連載中)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。