第23回「入定寺」(福岡市) 博多区上呉服町の御笠川沿い 勤皇志士の巨頭・梅田雲浜囲んで小宴 薩摩藩士・木村仲之丞が催す 招かれた一人、勤皇の医師・原三信が記録

一筆啓上

 蓮池という地名が博多にある。

 いまや、いったい、どこなのか、地元でもピンとくる人は少ない。わずかに、西鉄バスのバス停にその名をのこす程度。

 もともと、開基800年を誇る聖福寺(福岡市博多区御供所町)の近くに「蓮の池」があったことから、その名がついたという。

 そして、天下分け目の関ヶ原の戦いの後、筑前福岡の領主となったのが黒田家。入定寺にゅうじょうじはその初代福岡藩主・黒田長政の庇護ひごを受けた寺だった。

 しかし、維新後、廃仏毀釈の嵐にさらされ、寺領も削られ、わずかに現在の姿をとどめるに過ぎない。ゆえに、幾度も幾度も、この寺の近辺を歩いたにも関わらず、寺の名前すら記憶になかった。

 まさか、梅田雲浜や平野國臣までもが出入りしていた寺とは、まったく、知らなかった。はたして、梅田雲浜、平野國臣らには、当時、どんな風景として映っていたのだろうか……。

 明治5年(1872年)頃、入定寺は“テーマパーク”化の計画があった。その計画図を見せていただいたが、中央に大きな池もある。季節には蓮の花も咲き誇ったことだろう。完成していれば、まさしく「蓮池」という地名は広く知られることになっただろう。

 取材時、突然の訪問にも関わらず、住職は快く迎えてくださり、茶をててくださった。これが美味。一期一会。余韻に浸った一服だった。

絵・空鳥ひよの

吉田松陰に思想的影響与えた雲浜 志士らと大いに時世語ったか 2年後に江戸の獄舎で病死 西郷隆盛も死悼む

 梅田雲浜うんぴん(1815~59年)は勤皇志士の巨頭といわれる。その雲浜が福岡市博多区上呉服町の入定寺にゅうじょうじに立ち寄ったという。今も御笠川みかさがわ(旧石堂川)沿いには寺が密集しているが、入定寺はその一つ。

 雲浜は小浜藩(現在の福井県)の儒学者。安政5年(1858年)に始まる「安政の大獄」では、真っ先に捕縛されたと伝わる。吉田松陰(1830~59年)に思想的影響を与えた人物だが、雲浜が長州萩を訪ねた際には、「松下村塾しょうかそんじゅく」の書を求められたほど。松陰は雲浜を「『靖献遺言せいけんいげん』で固めた男」と評した。『靖献遺言』とは幕末志士の聖典であり、異民族支配に抗う忠臣の物語である。

 雲浜が入定寺に来たのは安政4年(1857年)正月のことだった。北条右門ほうじょううもんこと薩摩藩士の木村仲之丞なかのじょうが小宴を催し、勤皇の志士・平野國臣、勤皇の医師・原三信はらさんしん、医師の原田梅洞、勤皇の目明めあかし・高橋屋平右衛門、商人の帯屋治平おびやじへいが招かれた。

 北条右門は薩摩藩主の後継争いである「お由羅騒動」で薩摩を追われ、筑前福岡に潜入していたが、北条は雲浜の父と親交があったことから歓迎の宴を開いた。

 この雲浜との会合は原三信の記録にあった。原三信は、「安政の大獄」で西下した勤皇僧月照を太宰府天満宮に案内した人でもある。日本を取り巻く情勢に敏感だったのだろう。雲浜を囲んで大いに時世を語ろうという趣向の宴と思えるが、どのような話がなされたのかは不明。

 しかし、何か、雲浜についての記録がのこっていないかと思い、入定寺を訪ねた。突然の訪問にも関わらず、住職の清原宗鴻しゅうこう師は丁寧に応対してくださった。残念なことに、明治期の廃仏毀釈きしゃくで寺の多くの物が廃棄され、今では、雲浜が寺に来たという口伝しか残っていないという。清原住職は茶道裏千家の師範でもあるが、一服の茶をたて、筆者をもてなしてくださった。

 安政6年(1859年)9月14日、雲浜は江戸・小伝馬町の獄舎で病死した。およそ1年の獄舎では拷問に次ぐ拷問が続いた。日米通商条約締結反対、徳川慶喜よしのぶの将軍擁立計画、大老井伊直弼いいなおすけ排斥の罪を問われたが、一切を認めなかった。

 西郷隆盛は、「雲浜が存命であれば、我々は(指示を受ける)馬車の御者にすぎない」と、その死をいたんだ。

<君が代を思ふ心の一すぢに わが身ありとも思はざりけり>

 雲浜が捕縛前にしたためた辞世の句である。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載中。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(連載中)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。
広告

第22回「田中久重生誕地」(久留米市) 西鉄久留米駅近くの住宅街 長崎海軍伝習所で学んだ「東洋のエジソン」 東芝を創業

一筆啓上

 青山霊園(東京都港区青山)はドーム球場が軽く5つは入る広さ。その広大な敷地には、近代史に登場する著名人の墓が林立する。中には、あの、「忠犬ハチ公」の墓も。

 偶然、広い青山霊園で田中久重の墓に出くわした。

 田中は現在の福岡県久留米市出身。それだけに、大都会東京で同郷人に出会った感だった。

 墓所には顕彰碑があり、「万般の機械 考案の依頼に応ず」、「東芝創業者 田中久重翁」と彫られ、田中の似顔絵も描かれている。

 「あの世界の東芝の創業者かぁ……」。思わず、唸ってしまった。

 その田中の生誕地碑が西鉄天神大牟田線の高架沿いにある。西鉄久留米駅からほど近い住宅街の一画だ。

 「ここが、からくり儀右衛門ぎえもんが生まれた場所か……」

 東洋のエジソンとも、発明王とも呼ばれた田中久重は、「からくり儀右衛門」とも呼ばれた。その発明品の数々は天才にしか作れないものばかり。中でも、万年時計はスグレモノ。

絵・空鳥ひよの

 面白いことに、久留米には、他にも画期的な発明品がある。丸永製菓の「あいすまんじゅう」に豚骨ラーメン。個人的に、世界に推奨したい嗜好品です。

 ちなみに、「忠犬ハチ公」は渋谷駅前の屋台の焼き鳥が好物だったそうだ。

オランダ人技術者から世界最先端技術を吸収 佐賀藩で鉄製のアームストロング砲を完成 時代に必要とされ、時代に応える

 日本の技術革新の始まりはここだったのかと、田中久重(1799~1881年)の生誕地碑を見上げた。久留米市の西鉄久留米駅に近い住宅街の一画。西鉄天神大牟田線の高架側に碑はあった。「東洋のエジソン」とも「からくり儀右衛門ぎえもん」とも呼ばれたが、時代が久重を必要とし、久重も時代に応えた。

 嘉永6年(1853年)、ペリーの浦賀来航を機に、幕府は海軍の創設と造船の必要性に迫られた。安政2年(1855年)、長崎に海軍伝習所が設けられたが、この伝習所開設にはオランダの全面協力があった。

 伝習所には幕府関係者のほかに、福岡藩、佐賀藩、薩摩藩などが藩士を送り込んできた。そのなかに、佐賀藩伝習生として久重も加わった。久重をスカウトしたのは、佐賀藩の医師佐野常民つねたみだった。佐野は後に、日本赤十字社を創設したことで歴史に名を残す。

 長崎海軍伝習所には造船、修理のための鉄工所も併設された。鉄工所は長崎製鉄所と呼ばれ、オランダ人のヘンデレキ・ハルデス(1815~1871年)が建設、運営を指揮した。鉄工所は欧州と同レベル。いわば、伝習生は世界最先端の技術を基礎の基礎から学ぶことができたのだった。

 この鉄工所では、安政5年(1858年)、機関部を損傷したロシアのアスコルド号の修理を行った。翌年にはオランダ国王から幕府に献上された観光丸のボイラー交換を行った。修理や部品加工に必要な蒸気ハンマー、鍛冶場、鋳物場、旋盤細工所なども備えられており、オランダ人技術者と日本人伝習生とが一緒に作業にあたった。一連の修理作業を通じ、伝習生の技術力が格段に向上したのは間違いない。

 田中久重は佐賀藩で鉄製のアームストロング砲を完成させたと伝わる。長崎港警備を受け持っていた佐賀藩は、出島のオランダ商館医ファン・デン・ブルックから鋳造の技術を伝授されていた。鉄材はオランダから購入できる。佐賀藩が精度の高い大砲を生産できたのは、地の利、設備、そして長崎伝習所で技術を習得した田中久重を擁した結果である。

 ちなみに、この田中久重生誕地碑の近くに五穀神社がある。幼少の久重も遊んだ場所ではと想像をたくましくするが、ここに久重の胸像、発明品の数々を解説する案内板もある。東芝創業者・田中久重の躍動感が伝わってきそうだ。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載中。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(連載中)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。

第21回「遍照院 高山彦九郎の墓」(久留米市) 「寛政の三奇人」のひとり 尊皇論説いて全国遊歴 「狂」の言葉遺して自刃 今も全国から参拝者

一筆啓上

 西鉄久留米駅を降りると、高山彦九郎の墓所を示す看板に出くわす。それほど、多くの参拝者が久留米を訪れている証拠と言える。実際に、高山彦九郎の墓所備え付け台帳のページをめくると、日本全国、特に関東在住の方の記帳が多い。

 高山彦九郎の生涯については、謎が多い。なぜ、あれほどまでに日本全国を歩き回ったのだろうか。彦九郎を主人公にした歴史小説『彦九郎山河』(吉村昭 著)を読んでも、旅日記にも似た印象を受ける。

 さらには、なぜ、終焉しゅうえんの地として久留米を選んだのだろうか。

 久留米における彦九郎の交遊関係では、権藤寿達、森嘉膳の両名は外せない。特に、権藤の系譜に連なる交遊関係をみていくと、亀井南冥、廣瀬淡窓という儒学者に始まり、真木和泉、平野國臣という幕末維新の志士に連なる。

 さらに、寿達の曾孫・権藤成卿からみると、大川周明、安岡正篤、亀川満太郎、西田税、三上卓、四元義隆ら、近現代の事件に登場する人物が出てくる。明治維新150年ということで幕末史が注目される中、彦九郎からは「昭和維新」を標榜した人々にまで連なる。

 脈々と、現代にまで続く思想の系譜の源泉はどこにあるのか。

 様々な仮説をたてて考えているが、謎が謎を呼ぶばかりで迷路を突き進んでいる。

 ちなみに、彦九郎の墓所がある遍照院墓地には、歴史事件に関わった人々の墓碑などがある。じっくりと見てまわると新しい発見があります。

上野国出身も終焉の地に選んだのは久留米 朱子学・崎門学派の同門、権藤寿達、宮原桑州らに意思託したか

 久留米市寺町の遍照院へんじょういんを訪れた。ここには「寛政の三奇人」のひとり、高山彦九郎の墓があるからだ。墓前備え付けの記名帳を見ると、群馬県太田市など、関東一円からの来訪者の名がある。彦九郎は上野国こうずけのくに新田郡(現在の群馬県太田市)出身。寛政5年(1793年)、この久留米の地で亡くなった。しかし、没後220年余が経過しても彦九郎を慕う方がいることに驚く。

 反面、現代日本での評価は京都・三条大橋での「土下座」像の人と語られる。皇居を望拝ぼうはいしているのだが、彦九郎の生涯を思うと、誤解も甚だしい。彦九郎も無念ではないだろうか。

 彦九郎は天皇親政、王政復古という尊皇論を説いて全国を遊歴した。乱世には、武者修行として天下を周遊し、読書にも勝る識者との交わりをすべきという考えからだった。彦九郎とともに「奇人」と呼ばれた林子平はやししへいは海防論、蒲生がもう君平くんぺいは尊皇論と海防論を説いた。いずれにしても、この「寛政の三奇人」は幕府から忌避される存在であった。

 しかし、この彦九郎の奇人ぶりは、全国遊説だけでなく、「狂」という言葉をのこして自刃したことにある。天皇親政に向けて自身の努力が足りなかった。ゆえに、天から見放されても仕方がないとの自責の念だった。

 この彦九郎の勤皇思想を継いだのが真木まき和泉いずみ。天保13年(1842年)には、彦九郎没後五十年祭を執り行った。さらに、真木の盟友である筑前福岡の平野國臣は、彦九郎の墓前に灯籠を寄進した。安政5年(1858年)に建てられたという灯籠を確認すると、こけに覆われた下に「平野次郎」(平野の本名)の文字を認めることができる。

 彦九郎が自決したのは、遍照院の近く、知人の儒医森嘉膳かぜんの家だった。現在も、その跡地は史跡として大事に遺されている。しかし、なぜ、久留米の地を選んだのか。

 その鍵は『靖献遺言せいけんいげん』という幕末志士の聖典にあると考える。江戸前期の儒者山崎闇斎やまざきあんさいを始祖とする朱子学一門を崎門学きもんがく派と呼ぶ。その一門の浅見あさみ絅斎けいさいが著したのが『靖献遺言』だ。幕府を刺激しないよう、中国の実在の人物をモデルにし、異民族支配にあらがう忠臣の生涯を描いた一書。

 この久留米の地には、崎門学派の門人として森嘉膳に彦九郎を紹介した権藤寿達、真木和泉の儒学の師宮原桑州そうしゅうらがいた。彦九郎は、久留米の同門ならば、自身の意思を確実に引き継いでくれる。そんな思いを抱いていたのではないだろうか。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載中。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(連載中)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。

第20回「水田天満宮 山梔窩」(筑後市) 久留米藩「嘉永大獄」で蟄居の真木和泉、10年滞在 多くの門弟育て、勤皇の志士輩出 

一筆啓上

 維新に関する史跡を歩いていて、天満宮を介しての情報ネットワークが構築されていることに気づく。

 太宰府天満宮の延寿王院は「維新の策源地」と言われる。ここを基点に情報網が伸びている。それは、現代も、久留米・水天宮境内の真木神社脇に太宰府天満宮の名を刻む銅板があることから、水天宮と太宰府天満宮との関係性が見えてくる。

 この情報網は真木和泉が意図的に仕掛けたのか、偶然なのかはわからない。真木家は貧しく、口減らしとして水田天満宮、太宰府天満宮社家の小野加賀家にと弟たちを養子に送り出した。

 久留米藩の内訌(内紛)に関係したことから、真木和泉は謹慎処分を言い渡された。江戸時代、謹慎処分では親族が監視役を務める。そこで、弟の大鳥居理兵衛が宮司を務める水田天満宮で真木和泉は謹慎生活を送る。

 謹慎処分と言いながら、真木和泉の才能を求めて訪ねてくる志士たちは多かった。水田天満宮参拝という口実で志士たちは訪れ、祈願の札に密書を忍ばせ、真木和泉に届けていたのではないだろうか。

 その水田天満宮を訪ねた時、「良縁祈願」の女性たちを多く目にした。末社の「恋木神社」のネーミングから良縁祈願の聖地となったようだ。天満宮は情報ネットワークの基点。この地から、太宰府に久留米にと「良縁」が広がる様を想像したのだった。

 ちなみに、水田天満宮ではピンクのハート型の餅が売られている。どこか、買い求めるのが気恥ずかしく、口にできなかったのは残念。

 なお、恋木神社については、新刊『奉納百景』(小嶋独観著、駒草出版)の26~28ページに写真つきで紹介されている。

当時の宮司は実弟・大鳥居理兵衛 倒幕計画頓挫の真木和泉らに続き捕縛され、送還途中に自決 実兄やその門弟に累が及ばないよう配慮か

 一瞬、場違いなところに来たのでは……と思った。筑後市の水田天満宮を訪ねると、若い女性が目立つ。ここは全国でも珍しい恋愛成就の神様「恋木神社」があるからだが。拝殿前の「水田天満宮・ようこそ勤王の志士 明治維新発祥の里へ」と記された標柱があることで、やはり、維新関連の史跡なのだと安堵あんどする。

 この天満宮は、久留米藩の「嘉永大獄」に連座し、蟄居ちっきょを命じられた真木和泉まきいずみがいたところ。実弟の大鳥居理兵衛が宮司を務めていたが、いわば、理兵衛が実兄の真木を監視する役目を負わされていた。

 その真木の滞在は、およそ10年の長期にわたった。天満宮そばに平屋の藁葺わらぶき住居「山梔窩さんしか」を構えた。別名「くちなしのや」と呼ばれ、口を慎むという真木の意思が込められている。四畳半と三畳ほどの2室きりだが、ここで、真木は多くの門弟を育てた。

 近在の青少年に対し、学問を授け、撃剣、相撲という身体の鍛錬も義務付けた。「山梔窩塾規」を定め、塾生の生活態度、塾内の立ち居振る舞いにまで注意を払った。塾生は、庄屋、村役人、神職の子弟であり、武士階級ではない。しかし、武士同様の教育を受けた彼らは、のちに維新運動に身を投じる。

 山梔窩に集まったのは、青少年だけではない。福岡藩の平野國臣、出羽(現在の山形県)の清川八郎、熊本藩の宮部鼎蔵みやべていぞうら勤皇の志士たちもいた。真木の広い学識と思想にかれたからだが、とりわけ、平野國臣は蟄居中の真木の手足となり、国内外の情勢を伝える役目を果たした。

 嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航。安政5年(1858年)、幕府は日米修好通商条約を締結。無為無策の幕府の対応に憤り、真木は失政をただすとして行動に移った。

 文久2年(1862年)2月、真木は久留米藩を脱藩。塾生たちを従え薩摩へと向かう。薩摩藩との共闘を考えたが、島津斉彬なりあきら亡き後の薩摩藩は混乱していた。京都では、薩摩藩の内紛である「伏見寺田屋騒動」に遭遇。計画は頓挫し、真木たちは久留米に送還された。

 真木に先行して上京した大鳥居理兵衛も捕まり、送還途中に自決した。実兄や塾生に累が及ばないようにとの配慮と思える。水田天満宮は真木の蟄居先として注目が集まる。しかし、真木を支え犠牲となった理兵衛にも思いを寄せてほしい。境内の華やかな雰囲気を見ながら思うのだった。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載中。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(連載中)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。

第19回「久留米城跡 篠山神社」(久留米市) 祭神は歴代久留米藩主 第10代頼永、尊皇の志篤く日本見据える 無念の早世、長命なら幕末維新史で久留米藩は……

一筆啓上

 久留米城跡には歴代藩主有馬家を顕彰する「有馬記念館」がある。

 訪ねた折、「姫様のひなまつり」展として、お姫様のためにあつらえた絢爛けんらん豪華な品々が展示されていた。それらを眺めながら、維新時の藩主である有馬頼咸ありまよりしげの解説に目が留まった。

 有馬頼咸は第12代将軍徳川家慶とくがわいえよしの養女精姫を正室に迎えるため、久留米藩の江戸藩邸を新築することに。それも、藩財政を揺るがす巨額の資金投入をした。殿様は徳川家に対しメンツを保つためだろうが、これでは領民はたまったものではない。時代は、オランダ国王が日本に開国を勧めてきた時期と重なる。

 本来、西洋列強の脅威に備えなければならないときに、江戸藩邸の新築とは、なんと悠長な事と思った。幕府も藩も、緊張感に欠けている。これでは、倒幕論が盛んになるのも仕方ない。

 そんな感想を抱いて有馬記念館を後にした。
 
 ちなみに、久留米城跡には「東郷記念館」もある。ブリヂストン創業者・石橋正二郎が尊敬する東郷平八郎の書斎を移築したもの。石橋正二郎の業績について知るには、小島直記氏の『創業者・石橋正二郎 ブリヂストン経営の原点』(新潮文庫)がオススメです。

 この人が為政者であれば、どんな統治をしただろうかと、興味が湧いたのでした。

薩摩・島津斉彬、土佐・山内豊信(容堂)らと交遊 海外情報収集の「長崎聞役」設置、西洋の大砲鋳造に着手 真木和泉見いだし、財政危機では自ら倹約

 久留米城跡(久留米市篠山ささやま町)に足を踏み入れたとき、世が世であれば殿様になるべき人の名前を思い出した。

 日本中央競馬会理事長を務め、重賞レース「有馬記念」の由来ともなった有馬頼寧ありまよりやす、映画「兵隊やくざ」の原作である『貴三郎きさぶろう一代』の著者有馬頼義よりちかの二人。「有馬記念」は今に至るも人気のレースであり、「兵隊やくざ」は勝新太郎、田村高広の名演技によってシリーズ化された。明治維新という時代の変革が無ければ、有馬頼寧は14代、有馬頼義は15代の久留米藩主を継承していたはず。

 この久留米城跡には、篠山神社がある。祭神は歴代の久留米藩主だが、頼寧もまつられている。これら祭神のなかでも、第10代の有馬頼永よりとお(1822~1846年)は名君の誉れ高い藩主として知られる。尊皇の志が篤く、筑後川に船を浮かべ南朝の忠臣菊池武光をしのぶほどだった。薩摩の島津斉彬なりあきら、土佐の山内豊信とよしげ(容堂)ら、雄藩名士との交遊もあった。

 弘化元年(1844年)、オランダ国王の開国勧告において、頼永は海外の情報収集のための「長崎聞役ききやく」を設け、藩士に西洋砲術の習得、西洋の大砲鋳造に着手させた。

 さらに、頼永は藩の財政危機においては倹約を実行し、領民への負担を求めず、自ら率先して藩全体での節約に心がけた。

 その藩政改革において頼永の目に留まったのが、真木和泉まきいずみだった。真木は頼永に4部56ヶ条からなる意見書を提出した。頼永は真木の意欲を頼もしく思ったことだろう。

 しかし、残念なことに、この頼永は数え25歳という若さで亡くなる。薩摩島津家から迎えた夫人との間に子供がなく、頼永の弟頼咸よりしげへと藩政は引き継がれた。

 この藩主の急逝は、改革派内の分裂を生じさせ、藩政を批判したとして改革派は弾圧された。これが嘉永5年(1852年)5月に起きた久留米藩の「嘉永大獄」である。

 この「嘉永大獄」に連座し、真木和泉も処罰の対象となった。水天宮宮司の職を解かれ、実弟大鳥居理兵衛の養子先である水田天満宮(筑後市水田)に蟄居ちっきょを命じられた。

 城跡から悠々と流れる筑後川を望み、ブリヂストンの企業城下町と称される市街地を見下ろし考えた。日本を見据えた有馬頼永という藩主が長命であったならば、久留米藩は維新においてどれほどの人材を送り出しただろうか。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載中。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(連載中)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。

第18回「水天宮」真木和泉の銅像(久留米市) 筑後川河畔の全国総本宮 広い視野持ち行動する思想家 「禁門の変」で決起、同志とともに自刃

一筆啓上

 明治維新150年にあたり、幕末史に関する新刊が刊行されるなか、復刊されたものもあった。その1つが村上一郎の『幕末 非命の維新者』(中公文庫)。

 これは、初出が昭和43年(1968年)であり、今から50年前のことである。この頃、世の中は「明治100年」として、記念行事などが盛んだった。村上の『幕末』もその関連として、注目を浴びたのではないだろうか。

 この『幕末』には、大塩平八郎、橋本左内、藤田幽谷、藤田東湖、藤田小四郎、真木和泉守、佐久良東雄、伴林光平、雲井竜雄の9人を取り上げている。

 ただ、この中で、真木和泉守に対してだけは、辛辣しんらつである。このため、真木に対する評価が低いとして批判を浴びたと「文庫本の刊行にあたって」の一文に記されている。

 さらに今回、復刊された文庫本には、渡辺京二氏の解説があった。

 そこには、「僕は九州の人間は信用しません」と即答で村上から拒絶された思い出がつづられていた。氏も村上の一言に面食らったのではないか。この件から、九州人は軽薄と村上が思い込んでいた節がうかがえる。何が、そうまでして、村上を九州人嫌いにしたのかは不明。

 昭和45年(1970年)11月25日、三島由紀夫が自決した。

 生前の三島は村上が著した『北一輝論』を絶賛した。

 そして、その村上は、昭和50年(1975年)3月29日、三島の後を追うかのように自刃した。

 「僕は九州の人間は信用しません」と断言した村上だが、三島が西郷隆盛に心酔していたことを知って衝撃を受けたのだろうか。

 明治維新150年の今年、「西郷さん」が注目を浴びた。

 存命であれば、村上は九州人に対し、どんな評価をしたか、知りたいと思った。

絵・空鳥ひよの

維新史に欠かせぬ真木和泉 決起は天下に喚起促す「義挙」ではなかったか 久留米藩主・有馬頼徳が江戸藩邸に祀った水天宮、今も安産の神様として人気

「情け有馬の水天宮」

 これは、地口という庶民の言葉遊びとして伝わるもの。第9代久留米藩主の有馬頼徳よりのりが江戸藩邸に水天宮をまつり、江戸っ子の参拝を許したことから親しまれた。現代に至るも、東京の水天宮は安産の神様として人気が高い。

 その水天宮の全国総本宮は久留米市の筑後川河畔に鎮座する。本来は水難除けの社だが、休日ともなると、境内は安産祈願、初宮参りの人々でにぎわう。しかし、第22代宮司を務めた真木和泉の銅像周辺は閑散としている。真木は維新史に欠かせない志士だが、人々の関心が向かないことが残念で仕方ない。

 真木は、元治元年(1864年)7月19日の「禁門の変」で決起した。長州藩の久坂玄瑞くさかげんずい来島又兵衛きじままたべえとの軍議の末の行動だったが、敗れてのち、同志16名とともに自刃した。その際、自身の髪一束を京都・天王山の土中に埋め、辞世の句を詠んだ。

<大山の峰の岩根に埋めにけり わが年月の大和魂>

 外国勢力の駆逐を主張する長州と行動をともにしたことから、真木は頑迷な攘夷論者と思われがち。しかし、安政の大獄の頃に著した『経緯愚説』には新国家の枠組みが示され、外国事情にも精通していたことがわかる。それには、「言路を開くこと」「旧弊を破る事」などが記され、明治政府の基本方針である「五箇条の御誓文」の原型であったことが読み取れる。

 さらに、嘉永6年(1853年)のペリー来航、ロシアのプチャーチン来航に際しては『異聞漫録』を著し、押し寄せる海外勢力との外交の在り方にまで言及している。神官であることから国学、神道、和歌に通じるのは当然としても、儒学、漢詩にも詳しく、西洋の学問である蘭学にまで及んでいる。

 この蘭学については、水天宮境内の「工藤謙同先生碑」に工藤が真木に蘭学を教えたと記されている。真木が国防開国論者の佐久間象山を朝廷に推挙した背景には、シーボルトの弟子であった工藤との出会いがあった。

 真木和泉の背景を知ると、「禁門の変」での決起は幕府の失政を糾弾し、天下に喚起を促す「義挙」ではなかったかと思えてくる。真木の銅像を見上げながら、行動する思想家として再評価すべきだと考えた。

 ちなみに、真木の実弟は太宰府天満宮の社家(文人もんにん)小野加賀家に養子に行き、小野加賀として三條実美さんじょうさねとみら五卿滞在に関わった。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。61歳。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載中。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(連載中)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。