第26回「平尾山荘跡」(福岡市) 中央区平尾 野村望東尼が夫と隠居生活 潜伏した高杉晋作、起死回生の挙兵決意

一筆啓上

 初めて平尾山荘を訪れたのは、いつ頃だったろうか。

 住宅街のわらぶき屋根。無人。入口に案内チラシがあり、風で飛ばないよう、拳ほどの石が載せてあった。

 ここに高杉晋作が隠れていたのか……。

 炉が切られた座敷は狭く、それこそ、イビキすら隣室に響くのではと余計な心配をした。

 山荘の裏手には小さな泉があり、野村望東尼が知人の陶山一貫に手土産として持参した名水が湧いている。斜面には、小さなほこらがあったが、何が祀られているのかは不明。

 「維新秘話 福岡」の連載にあたり、再び平尾山荘を訪ねてみた。

 相変わらず、人の気配がない。

 しかし、少しずつだが、整備が進み、斜面にあった祠のそばに案内看板が設けられていた。平野國臣、中村恒次郎の両名が詠んだ和歌を刻む石塔が納められているという。

<大君にささげあまりし我いのちいまこそすつる時は来にけり> 平野國臣

<兼てよりつかふる君の命ぞと思いし我身今ぞささぐる> 中村恒次郎

 中村恒次郎は真木和泉が指揮する忠勇隊に所属し、禁門の変で戦死。平野はその禁門の変での騒動の最中、六角獄舎で殺された。中村恒次郎は兄の円太の影響を受けて尊皇運動に身を投じた。円太は高杉の福岡藩亡命を手助けした人。この円太なくして高杉の生命はまもられなかったのだ。

 維新史において、平尾山荘は外せない。

 徐々に史跡として整備が進む平尾山荘だが、近隣の公共交通機関などの案内はさびしいばかり。遠隔地から来福される幕末史ファンのためにも、地図や看板を備えてほしい。

藁ぶき屋根、雑木林、裏手の小さな泉…… 往時を偲ばせる風情 3藩連合構想外れ失意の晋作 息子のように接する望東尼、親身に世話

 高杉晋作は、平尾山荘で何を考え、何を感じたのだろうか。そんな疑問を抱きながら、西鉄平尾駅の改札口を出た。平尾山荘は福岡市中央区平尾にあるが、駅から徒歩15分ほどのところ。住宅街の公園のように整備されていた。

 ここは野村望東尼と夫の貞貫さだつらが隠居生活を送り、筑前福岡に亡命してきた高杉晋作が潜伏した場所として知られる。わらぶき屋根、雑木林、裏手の小さな泉が山荘と呼ぶにふさわしい往時をしのばせる。

 亡命直後の高杉は、佐賀藩、対馬藩、福岡藩との3藩連合を画策していた。福岡市博多区須崎町にあったという石蔵卯平いしくらうへいの邸で、筑前勤皇党と作戦会議を開いた。

 高杉は早速、佐賀県鳥栖市にあったという対馬藩田代代官所を目指した。田代領は、対馬藩3万石弱の約4割の石高を産する有力な領地。軍資金を得るためにも、この田代領の取り込みは必須だった。しかし、この時、対馬藩は藩内の政権抗争中であり、3藩連合の気運すらなかった。

 構想が外れ、失意の高杉を平尾山荘に案内してきたのは月形洗蔵だった。諸説あるが、高杉が平尾山荘に滞在したのは、元治元年(1864年)11月12日から、およそ1週間と伝わる。望東尼は帰郷した息子を迎えるがごとく、親身に高杉の世話をした。高杉も実家でくつろぐ風に縁側に寝そべり、その側で望東尼は縫い物をしていたという。手先の器用なことで知られた望東尼だったが、印半纏しるしばんてんのようなものを縫っていた。野村家の使用人である須田夘吉うきちの目撃証言である。

 ちなみに、時期不明ながら、夘吉は西郷隆盛らしき薩摩の大男が山荘を訪ねてきたとも証言している。

 高杉に長州藩の差し迫った状況をしらせてきたのは早川いさむだった。早川は月形洗蔵とは盟友。高杉の福岡亡命と入れ違いに、長州へと出張し、その実情を知らせにきたのだった。

 長州藩は幕府に対する謝罪恭順として家老の益田右衛門介うえもんのすけ、福原越後、国司信濃くにししなのの三家老を切腹、宍戸左馬之介ししどさまのすけら四参謀を斬首とし、「禁門の変」での指揮を執った責任を負わせた。その長州藩俗論党の態度に、高杉は声を殺して雄叫おたけびをあげた。自らの力で起死回生の挙兵を決意した瞬間でもあった。

 高杉は、平尾山荘滞在中、望東尼を通じて自身の天命、使命を悟ったのではないだろうか。

 訪ねた折、平尾山荘では、静かに小雪が舞っていた。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から2018年12月まで読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(2017年6月~2018年12月)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。
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第25回「石蔵酒造」(福岡市) 博多区堅粕(現在) 亡命の高杉晋作が潜伏、再起図る 主人の石蔵卯平、月形洗蔵ら筑前勤皇党と連携

一筆啓上

 福岡市博多区に「対馬小路」と表記される地名がある。

 多くの方は、ツシマコウジ? ツシマショウジ? と自信なげに口にされる。
「ツマショウジ」と読むのだが、なぜ、博多の地に対馬という地名があるのか。
 不思議……。

 これは、もともと、この地に対馬藩の蔵屋敷があったことから付けられた。

 対馬藩は幕府から薬用朝鮮人参の独占貿易を認められ、10万石の大名と同格に扱われた。しかし、対馬は米を十分に収穫できる地ではない。そこで、肥前田代領(現在の佐賀県鳥栖市上町)に飛び地を持ち、そこで収穫された米を博多の蔵屋敷に集めた。その蔵屋敷があったことから「対馬小路」という地名が遺った。

 そして、この対馬小路の地で海運業を営んでいたのが「石蔵屋」。

 この石蔵屋の主人は石蔵卯平いしくらうへいといって、勤皇の志が篤い商人だった。高杉晋作の筑前福岡への亡命では、身命を賭して晋作を庇護したのだった。

 現在、「石蔵屋」は福岡市博多区堅粕に移転し、酒造業を営んでいる。

 ギャラリーのような酒蔵の一画に、維新史に登場する志士たちのパネルがあり、「石蔵屋」の主人卯平と志士たちとの交流の歴史を楽しむことができる。

 「意外だった……」。こんな歴史ファンの声を聞くことができるのである。

後に奇兵隊入りの石蔵卯平 高杉を匿ったのが機縁か 金銭・情報面で勤皇派支援 功績認められ靖国神社に合祀

 石蔵酒造という造り酒屋が福岡市博多区堅粕にある。「博多百年蔵」と言ったほうが分かりやすい。蔵は国道3号に面しているが、ここは明治3年(1870年)に第二酒造場として設けられたところ。それ以前は、現在の博多区須崎町にあったと伝わる。始まりは、福岡藩主の黒田家に従い筑前に来た石蔵屋。魚問屋、対馬藩の運送用達を生業とした。須崎町の北側には対馬小路つましょうじという地名が残るが、これは対馬藩の蔵屋敷がこの地にあったことに由来する。

 文久3年(63年)、長州藩は英米仏蘭の四か国艦隊に砲撃を仕掛け敗北。その講和使節は高杉晋作だった。その堂々とした応対ぶりは、アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』に詳しい。

 しかし、同年の「八月十八日の政変」、元治元年(64年)の「禁門の変」で長州藩は幕府の圧力に屈し、俗論党が政権を掌握した。高杉は再起を期すため、身を潜める必要があった。

 俗論党によって拘束されかけた高杉は、まず、馬関(山口県下関市)の豪商・白石正一郎を頼った。さらなる逃避行には、久留米藩真木和泉の門弟渕上郁太郎、福岡脱藩浪士の中村円太えんたが関わった。

 同年11月、高杉は筑前福岡に亡命した。谷梅之助と変名した高杉が潜伏した先は石蔵屋。主人の石蔵卯平いしくらうへいは筑前勤皇党の月形洗蔵、鷹取養巴たかとりようはと親しく、先導役の円太とも顔なじみ。常日頃、卯平は勤皇党の志士に金銭の都合をつけ、情報を提供するなど協力的だった。それは対馬藩の勤皇派に対しても同じだった。

 文久2年(62年)、対馬藩と長州藩は同盟を結ぶが、これは前年のロシア軍艦ポサドニック号が対馬を占領した影響が大きい。こういった内外の動き、変化に卯平は迅速に反応したが、それは高杉受け入れにも見て取れる。

 卯平は後に、高杉が創設した奇兵隊に身を投じる。自邸での高杉との出会いが機縁となったのは想像に難くない。残念ながら、明治元年(68年)、卯平は同志と長崎に赴いて後、肥後・天草で何者かによって惨殺された。

 しかし、卯平がいたことで、高杉は再起できた。変化を読み取るに敏な卯平と高杉は、維新の先に何を見、何を語っていたのだろうか。須崎町から堅粕をめぐりつつ考えた。

 なお、功績が認められ、明治26年(93年)、卯平は靖国神社に合祀ごうしとなった。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から2018年12月まで読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(2017年6月~2018年12月)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。

第24回「明光寺」(福岡市) 博多区吉塚 高杉晋作匿った野村望東尼眠る 乱世で生きざま貫き、多くの志士に慕われる

一筆啓上

 野村望東尼について講演を依頼された時の話。

 講演では、人物についての印象を語り、身近に感じてもらうことを主眼にする。しかし、昔、昔の人だけに、どうしたもんじゃろのう……と考える。

 ふと、望東尼の性格を西洋占星術の星占いで紹介してはどうだろうか? と思い立った。

 西暦では1806年10月17日生まれの望東尼は「てんびん座」。一般的にその性格は、精神的にたくましく、常に前向き、負けじ魂、才気、社交性があり、サービス精神が旺盛、主導権を握り、相手を甘えさせ、男要らず。まさに、望東尼の生涯そのもの。思わず、笑ってしまった。

 講演会で披露すると爆笑。おおいに、ウケた。

 その後の懇親会も盛り上がった。目前の、和服美人がほほ笑みながら、ビールを注いでくれた。「あのう……、実は、私もてんびん座です」

 高杉晋作ならば、こういった時、どう切り返すだろうか?

 「おもしろいのぉ……」とは、とても言えない。

遠島・牢居に耐える 九州女子の代表格 若い女性への戒めの歌遺す 墓参に訪れる人後絶たず

 野村望東尼は慶応元年(1865年)、玄界灘に浮かぶ姫島に遠島となった。その罪状には、「自宅を不逞ふていやからの密談の場所に提供し、旅人を潜伏させた。その行動は女のすることとは思えず問題。しかし、今回、特別の配慮で姫島へ遠島、ろう居を申しつける」と記されている。この中で、旅人を潜伏とあるのは高杉晋作をかくまったことを指している。

 その望東尼は慶応2年(1866年)9月、晋作と協議した藤四郎らによって救出され、長州へと逃げ落ちた。慶応3年(1867年)4月、高杉が病没すると、後を追うように望東尼は、同年11月に亡くなる。終焉しゅうえんの地、墓所は山口県防府市にのこされている。

 迂闊うかつなことに、この望東尼の墓所が福岡市博多区吉塚の明光寺にもあることを見落としていた。寺は元々、博多区の中呉服町にあったが、明治末期、路面電車の敷設により現在地に移った。明光寺は野村家の菩提ぼだい寺であるだけでなく、夫が没した後、望東尼が得度剃髪ていはつを受けた寺である。早速、いずれも私の知人で望東尼を崇敬する筒井克彦氏(進学塾取締役)、小林信翠しんすい師(光薫寺住職)らと墓参を行った。

 九州男児といえば豪快な気質として見られる。しかし、その九州男児を叱咤しった激励するのは九州女子。その代表格が野村望東尼と言える。

 <ひとすじの道を守らばたをやめも ますらをのこに劣りやはする>

 これは、望東尼が若き女の戒めになるものとして詠んだ歌だが、「信念を持てば、女といえども男にも劣らない」と、なんとも勇ましい。

 姫島での牢居という処遇においても、男の志士と同じ扱いは光栄であると表明した。

 明光寺には、望東尼の墓所を示す案内看板、墓の脇には望東尼の生涯を示す案内板が立てられていた。乱世において、自身の生きざまを貫いた女性として、墓参に訪れる人が増えている証拠だ。

 辛亥革命の孫文は「日本の明治維新は中国革命の第一歩」と評した。そう考えると、明治維新の大業はアジアへも大きな影響を及ぼしたことになる。仮に、望東尼が長命であったとしても、率先して亡命者・孫文を匿い、精神的支柱になりえたことは間違いない。

 高杉晋作、平野國臣など、多くの志士から慕われた望東尼の存在があってこそ、維新の大業は達成できた。望東尼の深い慈悲に感謝しつつ、墓石に慰労の酒を注いだのだった。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から2018年12月まで読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(2017年6月~2018年12月)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。

第23回「入定寺」(福岡市) 博多区上呉服町の御笠川沿い 勤皇志士の巨頭・梅田雲浜囲んで小宴 薩摩藩士・木村仲之丞が催す 招かれた一人、勤皇の医師・原三信が記録

一筆啓上

 蓮池という地名が博多にある。

 いまや、いったい、どこなのか、地元でもピンとくる人は少ない。わずかに、西鉄バスのバス停にその名をのこす程度。

 もともと、開基800年を誇る聖福寺(福岡市博多区御供所町)の近くに「蓮の池」があったことから、その名がついたという。

 そして、天下分け目の関ヶ原の戦いの後、筑前福岡の領主となったのが黒田家。入定寺にゅうじょうじはその初代福岡藩主・黒田長政の庇護ひごを受けた寺だった。

 しかし、維新後、廃仏毀釈の嵐にさらされ、寺領も削られ、わずかに現在の姿をとどめるに過ぎない。ゆえに、幾度も幾度も、この寺の近辺を歩いたにも関わらず、寺の名前すら記憶になかった。

 まさか、梅田雲浜や平野國臣までもが出入りしていた寺とは、まったく、知らなかった。はたして、梅田雲浜、平野國臣らには、当時、どんな風景として映っていたのだろうか……。

 明治5年(1872年)頃、入定寺は“テーマパーク”化の計画があった。その計画図を見せていただいたが、中央に大きな池もある。季節には蓮の花も咲き誇ったことだろう。完成していれば、まさしく「蓮池」という地名は広く知られることになっただろう。

 取材時、突然の訪問にも関わらず、住職は快く迎えてくださり、茶をててくださった。これが美味。一期一会。余韻に浸った一服だった。

絵・空鳥ひよの

吉田松陰に思想的影響与えた雲浜 志士らと大いに時世語ったか 2年後に江戸の獄舎で病死 西郷隆盛も死悼む

 梅田雲浜うんぴん(1815~59年)は勤皇志士の巨頭といわれる。その雲浜が福岡市博多区上呉服町の入定寺にゅうじょうじに立ち寄ったという。今も御笠川みかさがわ(旧石堂川)沿いには寺が密集しているが、入定寺はその一つ。

 雲浜は小浜藩(現在の福井県)の儒学者。安政5年(1858年)に始まる「安政の大獄」では、真っ先に捕縛されたと伝わる。吉田松陰(1830~59年)に思想的影響を与えた人物だが、雲浜が長州萩を訪ねた際には、「松下村塾しょうかそんじゅく」の書を求められたほど。松陰は雲浜を「『靖献遺言せいけんいげん』で固めた男」と評した。『靖献遺言』とは幕末志士の聖典であり、異民族支配に抗う忠臣の物語である。

 雲浜が入定寺に来たのは安政4年(1857年)正月のことだった。北条右門ほうじょううもんこと薩摩藩士の木村仲之丞なかのじょうが小宴を催し、勤皇の志士・平野國臣、勤皇の医師・原三信はらさんしん、医師の原田梅洞、勤皇の目明めあかし・高橋屋平右衛門、商人の帯屋治平おびやじへいが招かれた。

 北条右門は薩摩藩主の後継争いである「お由羅騒動」で薩摩を追われ、筑前福岡に潜入していたが、北条は雲浜の父と親交があったことから歓迎の宴を開いた。

 この雲浜との会合は原三信の記録にあった。原三信は、「安政の大獄」で西下した勤皇僧月照を太宰府天満宮に案内した人でもある。日本を取り巻く情勢に敏感だったのだろう。雲浜を囲んで大いに時世を語ろうという趣向の宴と思えるが、どのような話がなされたのかは不明。

 しかし、何か、雲浜についての記録がのこっていないかと思い、入定寺を訪ねた。突然の訪問にも関わらず、住職の清原宗鴻しゅうこう師は丁寧に応対してくださった。残念なことに、明治期の廃仏毀釈きしゃくで寺の多くの物が廃棄され、今では、雲浜が寺に来たという口伝しか残っていないという。清原住職は茶道裏千家の師範でもあるが、一服の茶をたて、筆者をもてなしてくださった。

 安政6年(1859年)9月14日、雲浜は江戸・小伝馬町の獄舎で病死した。およそ1年の獄舎では拷問に次ぐ拷問が続いた。日米通商条約締結反対、徳川慶喜よしのぶの将軍擁立計画、大老井伊直弼いいなおすけ排斥の罪を問われたが、一切を認めなかった。

 西郷隆盛は、「雲浜が存命であれば、我々は(指示を受ける)馬車の御者にすぎない」と、その死をいたんだ。

<君が代を思ふ心の一すぢに わが身ありとも思はざりけり>

 雲浜が捕縛前にしたためた辞世の句である。

筆者プロフィル

浦辺登さん

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第22回「田中久重生誕地」(久留米市) 西鉄久留米駅近くの住宅街 長崎海軍伝習所で学んだ「東洋のエジソン」 東芝を創業

一筆啓上

 青山霊園(東京都港区青山)はドーム球場が軽く5つは入る広さ。その広大な敷地には、近代史に登場する著名人の墓が林立する。中には、あの、「忠犬ハチ公」の墓も。

 偶然、広い青山霊園で田中久重の墓に出くわした。

 田中は現在の福岡県久留米市出身。それだけに、大都会東京で同郷人に出会った感だった。

 墓所には顕彰碑があり、「万般の機械 考案の依頼に応ず」、「東芝創業者 田中久重翁」と彫られ、田中の似顔絵も描かれている。

 「あの世界の東芝の創業者かぁ……」。思わず、唸ってしまった。

 その田中の生誕地碑が西鉄天神大牟田線の高架沿いにある。西鉄久留米駅からほど近い住宅街の一画だ。

 「ここが、からくり儀右衛門ぎえもんが生まれた場所か……」

 東洋のエジソンとも、発明王とも呼ばれた田中久重は、「からくり儀右衛門」とも呼ばれた。その発明品の数々は天才にしか作れないものばかり。中でも、万年時計はスグレモノ。

絵・空鳥ひよの

 面白いことに、久留米には、他にも画期的な発明品がある。丸永製菓の「あいすまんじゅう」に豚骨ラーメン。個人的に、世界に推奨したい嗜好品です。

 ちなみに、「忠犬ハチ公」は渋谷駅前の屋台の焼き鳥が好物だったそうだ。

オランダ人技術者から世界最先端技術を吸収 佐賀藩で鉄製のアームストロング砲を完成 時代に必要とされ、時代に応える

 日本の技術革新の始まりはここだったのかと、田中久重(1799~1881年)の生誕地碑を見上げた。久留米市の西鉄久留米駅に近い住宅街の一画。西鉄天神大牟田線の高架側に碑はあった。「東洋のエジソン」とも「からくり儀右衛門ぎえもん」とも呼ばれたが、時代が久重を必要とし、久重も時代に応えた。

 嘉永6年(1853年)、ペリーの浦賀来航を機に、幕府は海軍の創設と造船の必要性に迫られた。安政2年(1855年)、長崎に海軍伝習所が設けられたが、この伝習所開設にはオランダの全面協力があった。

 伝習所には幕府関係者のほかに、福岡藩、佐賀藩、薩摩藩などが藩士を送り込んできた。そのなかに、佐賀藩伝習生として久重も加わった。久重をスカウトしたのは、佐賀藩の医師佐野常民つねたみだった。佐野は後に、日本赤十字社を創設したことで歴史に名を残す。

 長崎海軍伝習所には造船、修理のための鉄工所も併設された。鉄工所は長崎製鉄所と呼ばれ、オランダ人のヘンデレキ・ハルデス(1815~1871年)が建設、運営を指揮した。鉄工所は欧州と同レベル。いわば、伝習生は世界最先端の技術を基礎の基礎から学ぶことができたのだった。

 この鉄工所では、安政5年(1858年)、機関部を損傷したロシアのアスコルド号の修理を行った。翌年にはオランダ国王から幕府に献上された観光丸のボイラー交換を行った。修理や部品加工に必要な蒸気ハンマー、鍛冶場、鋳物場、旋盤細工所なども備えられており、オランダ人技術者と日本人伝習生とが一緒に作業にあたった。一連の修理作業を通じ、伝習生の技術力が格段に向上したのは間違いない。

 田中久重は佐賀藩で鉄製のアームストロング砲を完成させたと伝わる。長崎港警備を受け持っていた佐賀藩は、出島のオランダ商館医ファン・デン・ブルックから鋳造の技術を伝授されていた。鉄材はオランダから購入できる。佐賀藩が精度の高い大砲を生産できたのは、地の利、設備、そして長崎伝習所で技術を習得した田中久重を擁した結果である。

 ちなみに、この田中久重生誕地碑の近くに五穀神社がある。幼少の久重も遊んだ場所ではと想像をたくましくするが、ここに久重の胸像、発明品の数々を解説する案内板もある。東芝創業者・田中久重の躍動感が伝わってきそうだ。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
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 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(2017年6月~2018年12月)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。

第21回「遍照院 高山彦九郎の墓」(久留米市) 「寛政の三奇人」のひとり 尊皇論説いて全国遊歴 「狂」の言葉遺して自刃 今も全国から参拝者

一筆啓上

 西鉄久留米駅を降りると、高山彦九郎の墓所を示す看板に出くわす。それほど、多くの参拝者が久留米を訪れている証拠と言える。実際に、高山彦九郎の墓所備え付け台帳のページをめくると、日本全国、特に関東在住の方の記帳が多い。

 高山彦九郎の生涯については、謎が多い。なぜ、あれほどまでに日本全国を歩き回ったのだろうか。彦九郎を主人公にした歴史小説『彦九郎山河』(吉村昭 著)を読んでも、旅日記にも似た印象を受ける。

 さらには、なぜ、終焉しゅうえんの地として久留米を選んだのだろうか。

 久留米における彦九郎の交遊関係では、権藤寿達、森嘉膳の両名は外せない。特に、権藤の系譜に連なる交遊関係をみていくと、亀井南冥、廣瀬淡窓という儒学者に始まり、真木和泉、平野國臣という幕末維新の志士に連なる。

 さらに、寿達の曾孫・権藤成卿からみると、大川周明、安岡正篤、亀川満太郎、西田税、三上卓、四元義隆ら、近現代の事件に登場する人物が出てくる。明治維新150年ということで幕末史が注目される中、彦九郎からは「昭和維新」を標榜した人々にまで連なる。

 脈々と、現代にまで続く思想の系譜の源泉はどこにあるのか。

 様々な仮説をたてて考えているが、謎が謎を呼ぶばかりで迷路を突き進んでいる。

 ちなみに、彦九郎の墓所がある遍照院墓地には、歴史事件に関わった人々の墓碑などがある。じっくりと見てまわると新しい発見があります。

上野国出身も終焉の地に選んだのは久留米 朱子学・崎門学派の同門、権藤寿達、宮原桑州らに意思託したか

 久留米市寺町の遍照院へんじょういんを訪れた。ここには「寛政の三奇人」のひとり、高山彦九郎の墓があるからだ。墓前備え付けの記名帳を見ると、群馬県太田市など、関東一円からの来訪者の名がある。彦九郎は上野国こうずけのくに新田郡(現在の群馬県太田市)出身。寛政5年(1793年)、この久留米の地で亡くなった。しかし、没後220年余が経過しても彦九郎を慕う方がいることに驚く。

 反面、現代日本での評価は京都・三条大橋での「土下座」像の人と語られる。皇居を望拝ぼうはいしているのだが、彦九郎の生涯を思うと、誤解も甚だしい。彦九郎も無念ではないだろうか。

 彦九郎は天皇親政、王政復古という尊皇論を説いて全国を遊歴した。乱世には、武者修行として天下を周遊し、読書にも勝る識者との交わりをすべきという考えからだった。彦九郎とともに「奇人」と呼ばれた林子平はやししへいは海防論、蒲生がもう君平くんぺいは尊皇論と海防論を説いた。いずれにしても、この「寛政の三奇人」は幕府から忌避される存在であった。

 しかし、この彦九郎の奇人ぶりは、全国遊説だけでなく、「狂」という言葉をのこして自刃したことにある。天皇親政に向けて自身の努力が足りなかった。ゆえに、天から見放されても仕方がないとの自責の念だった。

 この彦九郎の勤皇思想を継いだのが真木まき和泉いずみ。天保13年(1842年)には、彦九郎没後五十年祭を執り行った。さらに、真木の盟友である筑前福岡の平野國臣は、彦九郎の墓前に灯籠を寄進した。安政5年(1858年)に建てられたという灯籠を確認すると、こけに覆われた下に「平野次郎」(平野の本名)の文字を認めることができる。

 彦九郎が自決したのは、遍照院の近く、知人の儒医森嘉膳かぜんの家だった。現在も、その跡地は史跡として大事に遺されている。しかし、なぜ、久留米の地を選んだのか。

 その鍵は『靖献遺言せいけんいげん』という幕末志士の聖典にあると考える。江戸前期の儒者山崎闇斎やまざきあんさいを始祖とする朱子学一門を崎門学きもんがく派と呼ぶ。その一門の浅見あさみ絅斎けいさいが著したのが『靖献遺言』だ。幕府を刺激しないよう、中国の実在の人物をモデルにし、異民族支配にあらがう忠臣の生涯を描いた一書。

 この久留米の地には、崎門学派の門人として森嘉膳に彦九郎を紹介した権藤寿達、真木和泉の儒学の師宮原桑州そうしゅうらがいた。彦九郎は、久留米の同門ならば、自身の意思を確実に引き継いでくれる。そんな思いを抱いていたのではないだろうか。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から2018年12月まで読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(2017年6月~2018年12月)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。