第19回「久留米城跡 篠山神社」(久留米市) 祭神は歴代久留米藩主 第10代頼永、尊皇の志篤く日本見据える 無念の早世、長命なら幕末維新史で久留米藩は……

一筆啓上

 久留米城跡には歴代藩主有馬家を顕彰する「有馬記念館」がある。

 訪ねた折、「姫様のひなまつり」展として、お姫様のためにあつらえた絢爛けんらん豪華な品々が展示されていた。それらを眺めながら、維新時の藩主である有馬頼咸ありまよりしげの解説に目が留まった。

 有馬頼咸は第12代将軍徳川家慶とくがわいえよしの養女精姫を正室に迎えるため、久留米藩の江戸藩邸を新築することに。それも、藩財政を揺るがす巨額の資金投入をした。殿様は徳川家に対しメンツを保つためだろうが、これでは領民はたまったものではない。時代は、オランダ国王が日本に開国を勧めてきた時期と重なる。

 本来、西洋列強の脅威に備えなければならないときに、江戸藩邸の新築とは、なんと悠長な事と思った。幕府も藩も、緊張感に欠けている。これでは、倒幕論が盛んになるのも仕方ない。

 そんな感想を抱いて有馬記念館を後にした。
 
 ちなみに、久留米城跡には「東郷記念館」もある。ブリヂストン創業者・石橋正二郎が尊敬する東郷平八郎の書斎を移築したもの。石橋正二郎の業績について知るには、小島直記氏の『創業者・石橋正二郎 ブリヂストン経営の原点』(新潮文庫)がオススメです。

 この人が為政者であれば、どんな統治をしただろうかと、興味が湧いたのでした。

薩摩・島津斉彬、土佐・山内豊信(容堂)らと交遊 海外情報収集の「長崎聞役」設置、西洋の大砲鋳造に着手 真木和泉見いだし、財政危機では自ら倹約

 久留米城跡(久留米市篠山ささやま町)に足を踏み入れたとき、世が世であれば殿様になるべき人の名前を思い出した。

 日本中央競馬会理事長を務め、重賞レース「有馬記念」の由来ともなった有馬頼寧ありまよりやす、映画「兵隊やくざ」の原作である『貴三郎きさぶろう一代』の著者有馬頼義よりちかの二人。「有馬記念」は今に至るも人気のレースであり、「兵隊やくざ」は勝新太郎、田村高広の名演技によってシリーズ化された。明治維新という時代の変革が無ければ、有馬頼寧は14代、有馬頼義は15代の久留米藩主を継承していたはず。

 この久留米城跡には、篠山神社がある。祭神は歴代の久留米藩主だが、頼寧もまつられている。これら祭神のなかでも、第10代の有馬頼永よりとお(1822~1846年)は名君の誉れ高い藩主として知られる。尊皇の志が篤く、筑後川に船を浮かべ南朝の忠臣菊池武光をしのぶほどだった。薩摩の島津斉彬なりあきら、土佐の山内豊信とよしげ(容堂)ら、雄藩名士との交遊もあった。

 弘化元年(1844年)、オランダ国王の開国勧告において、頼永は海外の情報収集のための「長崎聞役ききやく」を設け、藩士に西洋砲術の習得、西洋の大砲鋳造に着手させた。

 さらに、頼永は藩の財政危機においては倹約を実行し、領民への負担を求めず、自ら率先して藩全体での節約に心がけた。

 その藩政改革において頼永の目に留まったのが、真木和泉まきいずみだった。真木は頼永に4部56ヶ条からなる意見書を提出した。頼永は真木の意欲を頼もしく思ったことだろう。

 しかし、残念なことに、この頼永は数え25歳という若さで亡くなる。薩摩島津家から迎えた夫人との間に子供がなく、頼永の弟頼咸よりしげへと藩政は引き継がれた。

 この藩主の急逝は、改革派内の分裂を生じさせ、藩政を批判したとして改革派は弾圧された。これが嘉永5年(1852年)5月に起きた久留米藩の「嘉永大獄」である。

 この「嘉永大獄」に連座し、真木和泉も処罰の対象となった。水天宮宮司の職を解かれ、実弟大鳥居理兵衛の養子先である水田天満宮(筑後市水田)に蟄居ちっきょを命じられた。

 城跡から悠々と流れる筑後川を望み、ブリヂストンの企業城下町と称される市街地を見下ろし考えた。日本を見据えた有馬頼永という藩主が長命であったならば、久留米藩は維新においてどれほどの人材を送り出しただろうか。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。61歳。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載中。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(連載中)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。
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第18回「水天宮」真木和泉の銅像(久留米市) 筑後川河畔の全国総本宮 広い視野持ち行動する思想家 「禁門の変」で決起、同志とともに自刃

一筆啓上

 明治維新150年にあたり、幕末史に関する新刊が刊行されるなか、復刊されたものもあった。その1つが村上一郎の『幕末 非命の維新者』(中公文庫)。

 これは、初出が昭和43年(1968年)であり、今から50年前のことである。この頃、世の中は「明治100年」として、記念行事などが盛んだった。村上の『幕末』もその関連として、注目を浴びたのではないだろうか。

 この『幕末』には、大塩平八郎、橋本左内、藤田幽谷、藤田東湖、藤田小四郎、真木和泉守、佐久良東雄、伴林光平、雲井竜雄の9人を取り上げている。

 ただ、この中で、真木和泉守に対してだけは、辛辣しんらつである。このため、真木に対する評価が低いとして批判を浴びたと「文庫本の刊行にあたって」の一文に記されている。

 さらに今回、復刊された文庫本には、渡辺京二氏の解説があった。

 そこには、「僕は九州の人間は信用しません」と即答で村上から拒絶された思い出がつづられていた。氏も村上の一言に面食らったのではないか。この件から、九州人は軽薄と村上が思い込んでいた節がうかがえる。何が、そうまでして、村上を九州人嫌いにしたのかは不明。

 昭和45年(1970年)11月25日、三島由紀夫が自決した。

 生前の三島は村上が著した『北一輝論』を絶賛した。

 そして、その村上は、昭和50年(1975年)3月29日、三島の後を追うかのように自刃した。

 「僕は九州の人間は信用しません」と断言した村上だが、三島が西郷隆盛に心酔していたことを知って衝撃を受けたのだろうか。

 明治維新150年の今年、「西郷さん」が注目を浴びた。

 存命であれば、村上は九州人に対し、どんな評価をしたか、知りたいと思った。

絵・空鳥ひよの

維新史に欠かせぬ真木和泉 決起は天下に喚起促す「義挙」ではなかったか 久留米藩主・有馬頼徳が江戸藩邸に祀った水天宮、今も安産の神様として人気

「情け有馬の水天宮」

 これは、地口という庶民の言葉遊びとして伝わるもの。第9代久留米藩主の有馬頼徳よりのりが江戸藩邸に水天宮をまつり、江戸っ子の参拝を許したことから親しまれた。現代に至るも、東京の水天宮は安産の神様として人気が高い。

 その水天宮の全国総本宮は久留米市の筑後川河畔に鎮座する。本来は水難除けの社だが、休日ともなると、境内は安産祈願、初宮参りの人々でにぎわう。しかし、第22代宮司を務めた真木和泉の銅像周辺は閑散としている。真木は維新史に欠かせない志士だが、人々の関心が向かないことが残念で仕方ない。

 真木は、元治元年(1864年)7月19日の「禁門の変」で決起した。長州藩の久坂玄瑞くさかげんずい来島又兵衛きじままたべえとの軍議の末の行動だったが、敗れてのち、同志16名とともに自刃した。その際、自身の髪一束を京都・天王山の土中に埋め、辞世の句を詠んだ。

<大山の峰の岩根に埋めにけり わが年月の大和魂>

 外国勢力の駆逐を主張する長州と行動をともにしたことから、真木は頑迷な攘夷論者と思われがち。しかし、安政の大獄の頃に著した『経緯愚説』には新国家の枠組みが示され、外国事情にも精通していたことがわかる。それには、「言路を開くこと」「旧弊を破る事」などが記され、明治政府の基本方針である「五箇条の御誓文」の原型であったことが読み取れる。

 さらに、嘉永6年(1853年)のペリー来航、ロシアのプチャーチン来航に際しては『異聞漫録』を著し、押し寄せる海外勢力との外交の在り方にまで言及している。神官であることから国学、神道、和歌に通じるのは当然としても、儒学、漢詩にも詳しく、西洋の学問である蘭学にまで及んでいる。

 この蘭学については、水天宮境内の「工藤謙同先生碑」に工藤が真木に蘭学を教えたと記されている。真木が国防開国論者の佐久間象山を朝廷に推挙した背景には、シーボルトの弟子であった工藤との出会いがあった。

 真木和泉の背景を知ると、「禁門の変」での決起は幕府の失政を糾弾し、天下に喚起を促す「義挙」ではなかったかと思えてくる。真木の銅像を見上げながら、行動する思想家として再評価すべきだと考えた。

 ちなみに、真木の実弟は太宰府天満宮の社家(文人もんにん)小野加賀家に養子に行き、小野加賀として三條実美さんじょうさねとみら五卿滞在に関わった。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。61歳。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載中。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(連載中)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。

第17回「高良山」(久留米市) 都落ちの五卿・東久世通禧ら登る 官位復活・帰洛内定の直後 倒幕に向けた拠点確認の一環か

一筆啓上

山路やまみちを登りながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。

情にさおさせば流される。

意地を通せば窮屈だ。

とかくに人の世は住みにくい。

 高良山(福岡県久留米市)の急な坂を登っているとき、ふと、漱石の『草枕』の冒頭を思い出した。漱石のように徒歩ではなく、呑気のんきにクルマの座席でのことだが。

 太宰府天満宮・延寿王院に滞在中の三條実美をはじめとする五卿たちは、頻繁に山に登り、主要な街道の宿場を確認している。時には、新式の西洋銃砲の訓練まで。

 そんな五卿たちが参拝目的で登った高良山には、いったい、何があるのだろうか。

 行ってみて、「なるほど!」と思った。高良大社の展望台からは素晴らしい眺望が開けている。さらに、もともと、高良山は山城だった。有事の際には要塞になる。幕府の天領・日田の状況確認もできる。五卿らは、その確認に来たのか……と。

 感心しきりの時、偶然にも登場したのが漱石の句碑だった。それも、菜の花を詠んだ句。

 山路を登りながら、考えた事。

 1964年(昭和39年)の東京オリンピックでマラソン銅メダルを獲得した円谷幸吉。陸上自衛隊幹部候補生学校に入校後、高良山の山路を走った。

 競輪王者であり、オリンピックにも出場した中野浩一もトレーニングの場所として高良山を駆け抜けた。

 日本のボディビルダーの先駆者だった漱石。もしかして、身体を鍛えるため? 高良山に登ったのだろうか……。

絵・空鳥ひよの

南北朝時代、南朝方が城構えた高良山 天領・日田など視野に高い防御力 山頂には夏目漱石の句碑も 東久世ら一帯の街道・宿場なども巡覧

<菜の花の遥かに黄なり筑後川> 漱石

 久留米市の高良山こうらさん(312.3メートル)山頂で夏目漱石の句碑に出会った。楕円だえんの自然石に刻まれた俳句の通り、眼下には筑紫次郎こと筑後川。菜の花の季節であれば、さぞ、見事な景観が広がることだろう。

 今回、高良山を訪ねたのは、慶応3年(1867年)3月、五卿(尊王攘夷派だった三條実美さんじょうさねとみをリーダーとした上級公家)の東久世通禧ひがしくぜみちとみ四條隆謌しじょうたかうた壬生基修みぶもとながらが高良山に登ったとの記録を目にしたからだ。彼らの目的は、何だったのだろうか。その謎解きの一端でも知りたいと思い、神社にも詳しい陽明学専門家の橘一徳氏に案内をお願いした。

 東久世たちは、文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」で長州へと都落ちした。さらに、慶応元年(1865年)2月には太宰府天満宮・延寿王院に移った。三條以下五卿の滞在は3年ほどだったが、幽閉に近い扱いと思っていた。ところが、意に反し、頻繁に各地を巡っている。その一つが、高良山だった。

 高良山中腹には、筑後一の宮、九州総社と呼ばれ、高い社格を誇る高良大社がある。

 南北朝時代の正平14年(1359年)、この筑後地方では、筑後川合戦があった。南朝方の懐良親王かねながしんのうを擁する菊池武光と足利方の少弐頼尚しょうによりひさ熾烈しれつな戦いだった。高良山には別所城こと毘沙門嶽城があり、ここは懐良親王の本城だった。城跡からの雄大な眺めに声を失う。

 城跡からは、幕府天領があった大分県日田市方面を望み、眼下には筑後川に沿って久留米城、真木和泉が宮司を務めた水天宮がある。幕府軍勢が日田方面、有明海方面から襲来しても防御できる。仮に籠城するにしても、もともと高良山は山城。中腹の高良大社は、兵員を収容できるとりでにと利用が可能。長期の攻撃にも耐えられる。

 慶応元年5月、筑前勤皇党主導で薩長和解の議がまとまり、同月末には坂本龍馬が太宰府を訪れ五卿と面談をした。東久世らが高良山に登った慶応3年の1月、五卿の官位復活、京への帰洛きらくが内定していた。

 東久世らは高良山に登るだけではなく、長崎街道、肥後薩摩方面の街道、宿場を巡覧していた。これは、倒幕の戦いに備え、防御と援軍誘導の拠点を確認していたのではないか。

 五卿たちは延寿王院でも軍事訓練に励んでいた。高良山からの地形を目にした時、政権奪取への意欲の強さを再認識したのだった。

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浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
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第16回「野村望東尼御堂(獄舎跡)」(糸島市) 周囲3.8キロの姫島 政変で島流しの野村望東尼、過酷な冬越す 島の人々、今も大切に守る 

一筆啓上

 野村望東尼が遠島となった姫島(福岡県糸島市)では、牢居跡などが史跡として整備されている。波止場から、姫島神社の鳥居を目指し、路地を抜け、看板を頼りに歩くと到着する。望東尼がいた牢屋を中心に、石碑、胸像、史跡保存協賛者の名前を刻んだ碑もある。

 こういった史跡では、全体の様子を眺めることも大事だが、石碑の裏面、扁額の手跡は誰なのかを見ておくのも面白い。地域との関係性、意外な事実を見て取ることができるからだ。

 今回、牢居跡の「野村望東尼御堂」の額に目が行った。そこに、興味深い名前を発見した。原田観峰である。この原田観峰、天才書家として名を馳せた。『柳川藩 立花家中列伝』(原達郎著、私家版)にも登場する立志伝中の人であり、財団法人日本習字教育連盟の創立者である。個人的に、原田観峰は「日月神示」という神の言葉を自動書記した「ひふみ文字」を読み解いた人として関心がある。

 ちなみに、史跡保存協賛者の名前を刻んだ銅板を確認していた時、これは誤植では? と思うものがあった。「松山茂丸」とあるが、正しくは、政財界のフィクサーと呼ばれた「杉山茂丸」なのではないか……。杉山家は旧字の杉を用いる。これが、「松」に誤読されたものと考える。

「乙丑の獄」で高杉晋作匿う 老いた女性ながら牢居 志士弔う般若心経の血書、歌も詠む 入獄10か月後、晋作の手の者に救出される

 「勤皇の目明し」こと高橋屋平右衛門は、慶応元年(1865年)に姫島(糸島市)に流された。幕府お尋ねの勤皇僧月照を自宅にかくまったとしての罪だった。

 『筑前の流人』(安川浄生著)によれば、同年の「乙丑いっちゅうの獄」(福岡藩の政変)によって平右衛門の他に海津亦八、待井安内、三坂小兵衛、戸田平之丞、野村望東尼も島送りとなった。

 なかでも、高杉晋作を匿った野村望東尼は、老女でありながら牢居までが加わった。その牢は、文久元年(1861年)の「辛酉しんゆうの獄」(福岡藩の政変)で島流しとなった江上英之進(筑前勤皇党)がいた場所。望東尼は男性と同じ扱いだった。

 かつての流刑地であった姫島を訪ねた。対岸の岐志漁港から渡船を利用する。およそ3.5キロの距離を16分で結ぶが、その昔は、30分以上も要したという。そう考えると、江戸時代、潮の流れや風向きで、どれほどの時間を要したかわからない。快晴ながら風の影響で波が立ち、船は飛沫しぶきをあげ、上下に踊った。

 姫島は周囲3.8キロだが、一周できる道はない。居住区も限られている。姫島神社の一の鳥居から、民家と民家の間の路地を進むと、あっけなく、野村望東尼の獄舎跡に到達した。少しばかりの高台に設けられた牢の前から、光り輝く海、対岸の佐賀県唐津市に連なる山々も望見できた。

 望東尼の獄舎跡は、今も島の人々によって大切に守られている。「野村望東尼之旧址きゅうし」碑、胸像の他、望東尼を崇敬する人々の名前を刻む銅板がある。それには、伊藤博文、山縣やまがた有朋、広田弘毅、緒方竹虎など、歴史に名をのこす人々を多数認めた。

 姫島には浜定番、岡定番という監視の役人が配置されていた。流人は小屋を住居とし、自給自足生活が基本。しかし、望東尼は6畳ほどの獄舎から出ることは許されない。望東尼が島に着いたのは旧暦の11月。現代では真冬の12月になる。冷気、隙間風にずいぶんと悩まされたことだろう。

 それでも、望東尼は読経をし、志士たちを弔う般若心経の血書(血で経文を書くこと)をした。

 <ながされし身こそ安けれ冬の夜の あらしに出づるあまの釣り舟>

 折々、島での様子を歌に詠みもした。

 翌年9月、高杉晋作と協議したふじ四郎(筑前脱藩浪士)らによって望東尼は救出された。牢居で足のなえた望東尼を権藤幸助(勤皇の博多商人)が背負って逃げたという。

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浦辺登さん

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第15回「高橋屋平右衛門の家」(福岡市) 昭和通り沿いの天神3丁目 下名島町の目明し、幕吏から追われる月照を篤くもてなす 福岡藩勤皇派と親交

一筆啓上

 勤皇僧月照といえば、西郷隆盛と薩摩錦江湾に飛び込んだ人という印象が強い。

 安政の大獄で幕吏に追われ、京の都から逃げてきたものの、歴史小説、テレビドラマ、映画では、一挙に薩摩へと場面が飛ぶ。

 そのためか、月照が筑前福岡領内を転々と移動していた事実に関心が及ばない。太宰府天満宮の参道にある「松屋」という茶店にかくまわれていたということが、ようやく知られるようになった程度。

 「すぐそこですから、ちょっと、行ってみましょうか」

 白木大五郎氏の案内で月照が匿われたという高橋屋平右衛門の自邸跡に向かった。

 西郷隆盛は、福萬醤油の白木家の蔵に匿われた。月照は、勤皇の目明し・高橋屋平右衛門の自邸に匿われた。

 福萬醤油と高橋屋平右衛門の自邸は隣どうし。その高橋屋平右衛門の自邸跡が現在の「高橋天神ビル」だ。

 ビルを見上げながら、「ここに? 月照が? 本当に? ……」と思った。

 高橋天神ビルの1階には壁紙、紙小物を商う店がある。ここが、高橋屋平右衛門の末裔が営むお店だ。

 突然の訪問にも関わらず、女将さんが掛け軸を持ってきてくださった。匿ってもらったお礼にと月照が遺した和歌が書かれている。

 口伝は、本当だったのだと思った瞬間だった。

 紙小物が並ぶ店内だが、ここが実に、おちつく。

 都心とは思えない静かさ。

 月照も、こんな静かな空間でお香を楽しんだのだろうか。想像をたくましくする。

月照、お礼の歌遺す 頻繁に外部と接触、隣家に隠れた西郷隆盛の密使として活動か 平右衛門は後に遠島に

 ここが、「勤皇の目明し」こと高橋屋平右衛門の家だったのか――と、ビルを見上げた。天神(福岡市中央区)の昭和通りで、今は紙を商っている。昭和20年(1945年)の福岡大空襲で天神地区も灰燼かいじんに帰した。区画整理もあり、高橋屋の場所を厳密に特定するのは難しい。

 安政5年(1858年)、「安政の大獄」で幕吏から追われる身となった勤皇僧月照は、西郷隆盛と西下した。その月照をかくまったのが下名島町の目明し(犯罪捜査役)高橋屋平右衛門だった。

 平右衛門は福岡藩勤皇派の平野國臣、月形洗蔵、鷹取養把、仙田兄弟と親交があった。勤皇派は、「お由羅騒動」で福岡藩に逃れてきた北条右門(薩摩藩士・木村仲之丞)らとつながりがあり、北条の家に転がり込んできた月照を平右衛門が迎えることに。

 一週間ほど、高橋屋に身を寄せた月照は、奥の茶室で旅の疲れを癒した。平右衛門の妻イキは信心深い人だけに、月照をあつくもてなしたのだった。

 不思議なことに、お尋ね者であるはずの月照は頻繁に外出している。まず、北条の案内で太宰府天満宮に参詣し、薩摩藩定宿の「松屋」を訪ねた。ここからさらに、宝満山(太宰府市・筑紫野市)に登る。

 次に武蔵の湯(二日市温泉)に遊び、医師の陶山一貫、原三信らと天拝山(筑紫野市)に登っている。

 そして、平右衛門の家を起点に、平尾山荘(福岡市中央区)の勤皇の女傑・野村望東尼を訪ねた。驚くのは、筥崎宮(福岡市東区)を参詣した際、オランダ人を目にしたという。これは、福岡に来航した長崎海軍伝習所のカッテンディーケたちと思われる。それにしても、その行動はあまりに大胆。

 そこで、考えられるのは、高橋屋の隣家、福萬醤油の蔵に隠れたといわれる西郷隆盛の存在。西郷は月照とは別行動で薩摩へ急いだといわれる。しかし、月照は情勢を探りながら、西郷の密使として黒田長溥ながひろ(福岡藩主、島津家出身)、長崎海軍伝習所・勝海舟との接触を試みていたのではないだろうか。

 月照は平右衛門夫婦にお礼の歌をのこしていた。

 高橋屋に宿りゐて主人夫婦の情いと深ければ

 「答うべき限りは知らじ筑紫路の 海より深き人の情けに」

 後に、月照を匿ったことが発覚し、平右衛門は姫島(糸島市)に遠島となる。妻イキは島に渡り、病に伏せる夫を介抱したという。

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 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(連載中)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。