第34回「西公園」(福岡市) 中央区の桜の名所 高台に倒幕挙兵の平野國臣銅像

一筆啓上

 平野國臣の銅像を見上げると、大きな人物に見える。

 しかし、身長は5尺。今でいう、1メートル51センチほど。当時の日本人男子の平均、もしくは、それより小さいかもしれない。評伝を読むと、身のこなしが忍者のように身軽だったという。

 平野の父は福岡藩の武術師範であり、平野も幼少から総合的な武術を仕込まれていた。竹馬の友である藤四郎に仕込み杖(杖にみせかけた日本刀)、かんざし型の手裏剣を渡していることから、平野は手裏剣技も身につけていたと思われる。

 どこか近寄りがたい武骨な印象を抱くが、平野は近在の子供たちの人気者だった。平岡浩太郎(明治時代の衆議院議員)はひざに乗り、平野のヒゲを引っ張って遊んだという。福本日南(明治大正期のジャーナリスト)は平野から絵をめられたという。

 平野は少年たちのヒーローであり、あこがれだったのだろう。事実、平岡や福本らが育った地区からは、平野に続けとばかりに多くの著名人を輩出している。

 桜の季節、西公園の銅像近くには多くの人々が集う。はたして、銅像の下に集まる子供たちは、平野をどのように見ているのだろうか。

 この銅像の人は、こんな人。子供たちに、そう語れる大人が増えてほしい。

平野國臣像

幕府の代官所襲撃 囚われ京都の獄舎で斬殺、数え37歳 野村望東尼も悲嘆

 三島由紀夫の小文に「銅像との対話―西郷隆盛」がある。東京・上野の西郷隆盛像に語り掛け、追慕するもの。当初、西郷の人物としての偉大さが分からなかったと吐露する三島だった。

 ふと、そんなことを思い出したのは、西公園にある平野國臣像の前に立った時だった。西公園こと荒津山は福岡市民の憩いの場であり、春になれば桜の名所として人々が集う。その公園入口の坂道を少し登った左手に銅像はある。平野の銅像は大正4年(1915年)に建立されたが、昭和18年(43年)に金属供出され、現在の銅像は、昭和39年(64年)に「平野國臣百年祭」で再建された。銅像台座前には平野の生涯についての略歴を記す案内板があり、興味深げに読み進む人が多い。

 文久3年(1863年)8月17日、中山忠光卿を首領とする「大和挙兵天誅てんちゅう組の変」が起きた。続く8月18日、京の都で尊攘そんじょう派公卿、長州藩を排除する「八月十八日の政変」が起きる。

 この混乱に乗じて、倒幕の兵を挙げたのが平野國臣だ。同年10月12日、尊攘派公卿澤宣嘉さわのぶよしとともに、生野銀山を管理する幕府の代官所を襲撃。今も、兵庫県朝来あさご市には史跡としての生野銀山があるが、平野らは、軍資金の獲得も目論んでいた。

 しかし、農民主体の決起部隊では統制が取れず、あっけなく敗退。早々に、大将の澤宣嘉は敵前逃亡を図る。進退窮まった平野は幕吏に捕縛され、京都・六角の獄舎に送られた。

 元治元年(1864年)7月19日、長州藩の復権を求めての「禁門の変」が起きた。幕府軍と長州軍とのし烈な戦いで京都市中は大火。この時、六角獄舎の政治犯は、逃亡を防ぐためとの口実で処断。平野は「大和挙兵天誅組の変」でとらわれていた筑前福岡の吉田重蔵(第9話に詳述)とともに斬殺された。平野は落ち着き払い、一人、絶命の歌を朗吟したと伝わる。

平野國臣像辞世の句案内

 憂国十年 東走西馳
 成否在天 魂魄帰地

 平野の辞世の句だが、「日本が統一国家になるか否かは天の意志に在り」との言葉である。

 平野の最期は福岡藩筑前勤皇党の面々にも伝わった。なかでも、「彼の人に似合わぬつたなさ」と野村望東尼は、その早すぎる死を嘆き悲しんだ。

 数え37歳で生涯を終えた平野國臣。知ってか知らずか、銅像の周囲には、お花見の人々が集い、和やかな雰囲気に包まれていた。

平野國臣像前

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から2018年12月まで読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(2017年6月~2018年12月)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。
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