第24回「明光寺」(福岡市) 博多区吉塚 高杉晋作匿った野村望東尼眠る 乱世で生きざま貫き、多くの志士に慕われる

一筆啓上

 野村望東尼について講演を依頼された時の話。

 講演では、人物についての印象を語り、身近に感じてもらうことを主眼にする。しかし、昔、昔の人だけに、どうしたもんじゃろのう……と考える。

 ふと、望東尼の性格を西洋占星術の星占いで紹介してはどうだろうか? と思い立った。

 西暦では1806年10月17日生まれの望東尼は「てんびん座」。一般的にその性格は、精神的にたくましく、常に前向き、負けじ魂、才気、社交性があり、サービス精神が旺盛、主導権を握り、相手を甘えさせ、男要らず。まさに、望東尼の生涯そのもの。思わず、笑ってしまった。

 講演会で披露すると爆笑。おおいに、ウケた。

 その後の懇親会も盛り上がった。目前の、和服美人がほほ笑みながら、ビールを注いでくれた。「あのう……、実は、私もてんびん座です」

 高杉晋作ならば、こういった時、どう切り返すだろうか?

 「おもしろいのぉ……」とは、とても言えない。

遠島・牢居に耐える 九州女子の代表格 若い女性への戒めの歌遺す 墓参に訪れる人後絶たず

 野村望東尼は慶応元年(1865年)、玄界灘に浮かぶ姫島に遠島となった。その罪状には、「自宅を不逞ふていやからの密談の場所に提供し、旅人を潜伏させた。その行動は女のすることとは思えず問題。しかし、今回、特別の配慮で姫島へ遠島、ろう居を申しつける」と記されている。この中で、旅人を潜伏とあるのは高杉晋作をかくまったことを指している。

 その望東尼は慶応2年(1866年)9月、晋作と協議した藤四郎らによって救出され、長州へと逃げ落ちた。慶応3年(1867年)4月、高杉が病没すると、後を追うように望東尼は、同年11月に亡くなる。終焉しゅうえんの地、墓所は山口県防府市にのこされている。

 迂闊うかつなことに、この望東尼の墓所が福岡市博多区吉塚の明光寺にもあることを見落としていた。寺は元々、博多区の中呉服町にあったが、明治末期、路面電車の敷設により現在地に移った。明光寺は野村家の菩提ぼだい寺であるだけでなく、夫が没した後、望東尼が得度剃髪ていはつを受けた寺である。早速、いずれも私の知人で望東尼を崇敬する筒井克彦氏(進学塾取締役)、小林信翠しんすい師(光薫寺住職)らと墓参を行った。

 九州男児といえば豪快な気質として見られる。しかし、その九州男児を叱咤しった激励するのは九州女子。その代表格が野村望東尼と言える。

 <ひとすじの道を守らばたをやめも ますらをのこに劣りやはする>

 これは、望東尼が若き女の戒めになるものとして詠んだ歌だが、「信念を持てば、女といえども男にも劣らない」と、なんとも勇ましい。

 姫島での牢居という処遇においても、男の志士と同じ扱いは光栄であると表明した。

 明光寺には、望東尼の墓所を示す案内看板、墓の脇には望東尼の生涯を示す案内板が立てられていた。乱世において、自身の生きざまを貫いた女性として、墓参に訪れる人が増えている証拠だ。

 辛亥革命の孫文は「日本の明治維新は中国革命の第一歩」と評した。そう考えると、明治維新の大業はアジアへも大きな影響を及ぼしたことになる。仮に、望東尼が長命であったとしても、率先して亡命者・孫文を匿い、精神的支柱になりえたことは間違いない。

 高杉晋作、平野國臣など、多くの志士から慕われた望東尼の存在があってこそ、維新の大業は達成できた。望東尼の深い慈悲に感謝しつつ、墓石に慰労の酒を注いだのだった。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から2018年12月まで読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(2017年6月~2018年12月)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。
広告

コメントをどうぞ