第8回「月形洗蔵幽閉の地碑」(筑紫野市) 福岡藩主黒田長溥に勤皇忠義説き、「藩政妨害」と処断される 桜田門外の変直後、「辛酉の獄」

一筆啓上

 「月形洗蔵幽閉の地碑に行くには、何を目標にしたらいいですか?」

 維新史に関心がある方から、たびたび質問を受ける。グーグルの地図情報には、碑がある場所を示すポイントがある。しかし、現地で碑を見つけだすのは容易でない。目標となるのは九州自動車道だが、周囲は田や畑、小高い丘であり、風景に溶け込んで目に入らない。

 確実なルートは下記の通り。

  • 筑紫野市上古賀の若八幡宮を目指す(グーグル地図に表示があり、県道137号線に面している)。
  • 神社右手、西に直進する道を進む。
  • 鳥栖筑紫野有料道路のガード下を潜るとT字路に行きつく(稲穂の先にぼんやり石碑が目に入る)。
  • T字路を右に道なりに進むと、左手に碑を目にすることができる。

 高速道路の遮音壁のそばに「月形洗蔵幽閉の地碑」はポツンと立っている。

 月形は、こんな淋しい場所で、どんな日々を送っていたのだろうか。無念の思いを反発に変えていたに違いない。そうでなければ、処分が解けた後、再び、倒幕維新の道をひた走ることはしないだろう。どれほどの精神力の持主であったのか。

 2年近くの幽閉期間、山弥光昌が月形を支えていたという。山弥と月形は、槍の同門でもあった。山弥は時に、猪肉や鯉を差し入れ、月形の健康にも気を配っていた。

 この猪肉や鯉について、「西郷(隆盛)と鴻池が一緒なので、持ってきてほしい」との山弥あての月形の手紙が遺っているという。山弥が猪肉や鯉をいつでも用意できることを月形が知っていたからだ。

 月形幽閉の地碑そばの九州自動車道のガードを潜る。坂道を登った先には池があり、昔、そこは養鯉池だった。月形が食した鯉は、その池のものだったのだろう。

 ちなみに、碑に行くポイントである若八幡宮だが、明治10年(1877年)の「福岡の変」で戦死した石部敬吉が倒れた場所に近い。「福岡の変」とは、西南戦争に呼応した旧福岡藩士の義挙。昔、石部の戦死した場を示す小さな石碑があったが、住宅がたて込み見つけ出すことはできなかった。無念。

牢居2年、精神力で耐える 赦免後は薩長和解などにエネルギー 西郷隆盛の評価高く 薩摩島津家からの養嗣子、長溥は藩政上の威厳維持狙いか

 筑紫野市の畑の中にポツンと、「月形洗蔵幽閉の地」碑は立っている。インターネットが普及した現代でも、この場所を特定するのは容易でない。手掛かりは、傍らを通る九州自動車道くらいか。

 月形洗蔵は文政11年(1828年)、早良郡鳥飼村大字谷(現在の福岡市中央区)に生まれた。父・月形深蔵は儒学者(朱子学)、祖父・七助も第10代福岡藩主黒田斉清なりきよの読書相手を務めた儒学者だった。とりわけ、父・深蔵は「王を尊び義をとる」と唱えた朱子勤皇の人だった。

 万延元年(1860年)、月形洗蔵は藩政改革についての建白書を藩庁に提出した。「財政や軍備を整えることが急務であり、(財政負担となる)藩主の江戸参府を見合わせるべき」と主張した。

 天保8年(1837年)、大坂で「大塩平八郎の乱」が起きた。貧民の救済を叫んだ大塩の乱は、福岡藩領にも詳細が伝わっている。安政7年(1860年)3月3日には、幕府の大老・井伊直弼(なおすけ)が水戸浪士らに襲撃された。いわゆる「桜田門外の変」だが、この二つの事件は幕府の屋台骨を揺るがす地殻変動であった。これに触発されたのが洗蔵であり、ついには、藩主に勤皇忠義を説いた。

 しかし、第11代藩主黒田長溥ながひろは「容易ならざる意見を吐き、藩政を妨害した」として、文久元年(1861年)、月形洗蔵、中村円太、藤四郎など30余人を処断。この年が干支えとでいうところの「辛酉しんゆう」にあたることから「辛酉の獄」と呼ばれる。薩摩島津家からの養嗣子である長溥からすれば、藩政での威厳を保ちたかったのかもしれない。

 洗蔵は御笠郡古賀村(現在の筑紫野市古賀)の佐伯五三郎宅に幽閉された。筆、すずりを取り上げられ、終日、六畳ほどの部屋で書を読むしかない。この時代、牢居は緩い刑死といわれる。砲術、剣術の目録(免状)を持つ洗蔵だからこそ、2年の牢生活に耐えることができた。それにしても、その精神力には驚くばかり。

 「月形の志気、筑藩(福岡藩)には無比なる」と西郷隆盛は洗蔵を高く評価した。赦免後の洗蔵は長州征伐軍解兵、五卿の太宰府移転、薩長和解にと水を得た魚のように行動した。まるで、幽閉で抑圧されたエネルギーを一気に爆発させるかのように。

 時代が早かった。月形が幽閉された跡地の碑を見上げながら、惜しい人材を封印したものと、慨嘆した。

筆者プロフィル

浦辺登さん

浦辺うらべ のぼる 歴史作家・書評家
1956年(昭和31年)、福岡県生まれ。福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を行う。オランダ系生命保険会社勤務、財団法人日本プロスポーツ協会事務局長を経て、日本近現代史を中心とした執筆・講演活動に入る。現在、福岡の偉人の足跡を伝える講座を黒田家ゆかりの圓應寺(福岡市)などで開講し、新聞・雑誌で書評を担当。2017年6月から読売新聞の福岡県地域版で「維新秘話」を連載しており、18年4月からは福岡市のソラリアステージで開講中の「よみうりSPACEラボ」講師を務める。著書は『玄洋社とは何者か』『東京の片隅からみた近代日本』『太宰府天満宮の定遠館』(いずれも弦書房)など。学校現場を含め、講演多数。「福岡先哲の会」主宰。
 「浦辺登の福岡維新を歩く」は、読売新聞の福岡県地域版の連載企画「維新秘話 福岡」(連載中)に掲載された記事をもとに、新たな文章や写真などを加え、レイアウトも大幅に変更して再構成したものです。
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